〝ぱしふぃっくびいなす〟で訪ねた 国境の島・対馬②

文・写真 上川庄二郎

【離島観光は、クルーズ船で】
クルーズ船の肩を持つわけではないが、離島観光には断然クルーズ船がお奨めである。
飛行機を利用すると、狭い機内に閉じ込められ、乗り継ぎしながら移動し、やっと目的地に着いたらもう夕方で、ホテルに直行という慌しいパターン。これでは旅の気分は味わえない。
これに対し、クルーズ船は、乗ったらもうホテルも同然。翌朝下船するまでは乗り換えなど煩わしいことは一切ない。船内では、明日の寄港地の説明会も催され至れり尽くせり。その上夜のショータイムやダンスタイムも設定され、ゆったりとした至福の一夜が過ごせるのもまた格別。
【「非日常」in「国境の島・対馬」】
さて、対馬は数々の伝説を秘める島、古代から大陸との交易路として重要な役割を果たしてきた島、周囲を海に囲まれた大自然たっぷりの島。
その島内観光に私たちはタクシーをチャーターした。親切な運転手某氏は、早速対馬藩の御用船を繋留した船溜まり跡に私たちを案内してくれた。1633年に造成されたものというが、今でいう岸壁である。江戸期鎖国下にあった時代も日朝交流史上重要な役割を果たした対馬藩の大きな遺産である。
次に行ったのが、対馬10万石の藩主宗家の菩提寺・万松院(ばんしょういん)である。宗家は石田三成が関ヶ原で敗れると、徳川に帰依し、万松院に徳川歴代の位牌を祀るという肝の入れよう。宗家の墓所は百雁木(ひゃくがんぎ)と呼ばれる石段を上り詰めた奥にあり、日本三大墓所の一つに数えられ、樹齢千年の大杉が見守る幽玄な佇まいである。
ここで、運転手某氏が「少し遠くて今日ご案内できませんがね、島の南に行きますと、安徳天皇の御陵墓地があるんですよ。ご存じないでしょう。
実は、安徳天皇は壇ノ浦から生き延びて対馬に渡り、ここで生涯を終えられたとされているんですよ」。帰って調べてみると、そういう説もあって、宮内庁では、ここを御陵墓とは言わず、「御陵墓参考地」とされているようだ。色々あるもんだ。
厳原の町の中心部に入ると、運転手某氏は、「この通りは広いでしょう。昔からなんですよ。秀吉以来、朝鮮通信使は断絶していたのですが、江戸幕府になって双方の仲介役を対馬藩が買って出、これを復活させたんです。ところが、この間に対馬藩は、江戸幕府に内緒で国書を偽造して朝鮮に渡すのですね。対馬藩としては、朝鮮と交易がなくては食べてゆけなかったんです。その通信使が対馬を経由して幕府に参上したのですが、その行列が通ったのがこの道なんです」。なるほど、朝鮮との交易は対馬にとって欠くことのできない大事業だったのだ。
「対馬宗氏は、李氏朝鮮国に寄生していたといっていい」。「室町期以来、李氏朝鮮は対馬宗氏に米豆二百石を与え続けてきた。でなければ倭寇になってやってくるためで、これほど厄介な隣人はあったろうか」。「豊臣秀吉の朝鮮侵略でこの関係は途絶えたが、徳川期に入り、対馬藩は、関係の回復につとめた。この虫のよさも、『日本人はその性、狡悍(こうかん:乱暴で狡い=上川注)にして義を以て屈し難し』(申叔舟=李朝の宰相)」と言わしめたが、結局、「歳賜米二百石を半分に減らし、復活することになった」。徳川幕府はこれを評価し、「その功賞でいまの佐賀県内に一万三千余石(のち二万余石)を与えた。幕府が日本政府である以上見捨てておけなかったのである」(「街道をゆく13」司馬遼太郎)。
外交とはこんな危ない橋を渡らねばならないこともあるのだと教えられた。
「ところで運転手さん、船の中で説明を聞いたのですが、今、韓国は対馬の土地を買い漁っているとか?」と設問すると、待ってましたとばかりに、「そうなんです。今から浅茅湾(あそうわん)が一望できる烏帽子岳展望台に行きますが、この内海は以前真珠の養殖が盛んだったのですが、日本の真珠産業が衰退し、ここでも養殖を止めてしまったのです。私も、その仕事に従事していたのですが、その後タクシーに乗っているんです。某漁業会社が持っていた養殖関連の土地が、自衛隊の基地に隣接していたものですから、会社の方も国に買い取って欲しかったようですがそれもならず、どんな経緯でかは分かりませんが、結局韓国資本の手に移ってしまったのです。今は、自衛隊の基地と金網越しに隣り合って、韓国の保養施設になっています。彼ら韓国人は、対馬の領有権を主張して島内の土地を買い漁り、自らの保養施設を造るなど着々と事実を積み上げているのです。対馬の島民も何人かそこで働いているということです」。
前号で書いたように、対馬市長が防衛大臣に直訴したにも拘わらず国が買い取らなかったことが、この説明で実証されたことになる。
【風光明媚な浅茅湾、実は要塞だった】
次いで、烏帽子岳展望台に案内されて浅茅湾を一望するとこれはまた素晴らしい。360度展望できるリアス式海岸線の静かなた佇まいは心和ませる風景である。
ところが、運転手某氏は、「幕末にロシアの軍艦が浅茅湾に侵入し一時占拠する事件が起こったのです。イギリスに助けてもらってロシアの軍艦を退去させたのですが、その後、列強の対馬接近に備え浅茅湾一帯を要塞化し、30基ほどの砲台を造ったのです。これが、日露戦争で日本に勝利をもたらす大きな基になったのですね。後でご案内しますが、この浅茅湾から対馬海峡に出られるようにと、当時の海軍が島の狭い部分を開削して水路を造ったんですね。東郷艦隊は、この浅茅湾からこの水道を通って水雷艇を出撃させたのですよ。日露戦争の勝利は、この水道のお蔭です」と淡々と話す。そうだったのか、と頷きながら展望台を後にした。その人工の瀬戸に架かる橋は、明治33年に竣工し万関(まんぜき)橋と名付けられた。現在の橋は二代目だということである。
しかし、ここ対馬が今、韓国の狙いどころとなっている。ロシアが北方領土で行っている事実上の領有政策と何となく相通ずるものを感じさせられる。
【上見坂公園=上見坂堡塁跡】
次に案内されたのが、烏帽子岳と反対側から浅茅湾を見下ろせる高台の公園である。ところがその裏手の丘は、名にし負う要塞群だったのである。明治35(1902)年、日露戦争を前に建造された堡塁(ほうるい)や塹壕(ざんごう)、砲台跡が累々としている。そこに一台の観光バスがやってきた。降り立ったのは若い女性群。みたところ、服装は日本人と余り変わらないが、話す言葉が違う。そうなんだ、韓国からの観光客だったのだ。もちろんガイドも韓国人。
運転手某氏が言うに、「対馬への観光客は日本人よりも韓国人の方が多いのですよ。フェリーで来れば三時間ですからね。それに、ガイドは日本語の達者な韓国人が付き添ってきますから日本人はほとんど関わりません。私も韓国の観光客を乗せたこともありませんし、ハングルも喋れません」ということだった。
そうは言うものの、ここらあたりに掲示してある案内板を見ると、ハングルを筆頭に、英語、中国語で表示されている。如何に韓国人観光客が多いか、と同時に彼らを大切にしないと対馬の観光が成り立たない。何とも皮肉なことである。逆に、日本人観光客が少ないということの証しでもある。
「最盛期には6万5千人を超えていた人口も、今では2万7千人と半分以下に減ってしまいました。島に仕事がありませんからね」、とは運転手某氏の言葉。対馬は、昔も今も韓国との交流抜きで島民の生活が成り立たないということだろうか。
【日本政府は、国境線の防備に無神経だ!】
東北大震災や原発事故の対応に追われてそれどころではないよ、ということかもしれないが、そんな悠長なことを言っている間などありはしない。
国境の島は対馬だけではない。先島(さきしま)諸島など、日本海、東シナ海に面した離島周辺で今何が起こっているのか、北方領土はどうなっているのか。政府は、常に耳目を欹(そばだて)て欲しいものである。
日本は、四方海に囲まれた海洋国家である。二百海里で囲まれた日本の面積は世界6位という広さであることを知っている国会議員は何人いるのだろう。海洋基本法が成立して既に4年が経過した。その立法趣旨に則ってきちんと対応して欲しいもの。その広い海洋に眠る鉱物資源はどれほどあるのか、いかほどの漁業資源が期待できるのか、はたまた海洋国家日本をどう導いてゆくのか。
こういった国境の島々への海上保安庁や自衛隊の増備強化は当然必要なことながら、これだけでは日本の国境や国土は護れない。人口減少の続くこれら国境の島々をどうすれば護ってゆけるのか。単なる離島振興といった考えでなくもっと多面的に考え手を打ってゆくことが喫緊の課題である。
入港時に受けた暖かい歓迎とは裏腹に、色々と考えさせられる対馬クルーズだった。

烏帽子岳から眺望した浅茅湾。この静かな海が、かつて幕末から第二次大戦までの日本を守る要塞だったのだ。

烏帽子岳から眺望した浅茅湾。この静かな海が、かつて幕末から第二次大戦までの日本を守る要塞だったのだ。


対馬藩のお船江跡。鎖国時代も日朝交易で大きな役割を果たした。

対馬藩のお船江跡。鎖国時代も日朝交易で大きな役割を果たした。


今に残る万松院の桃山様式の山門。本堂、庫狸は明治の再建。

今に残る万松院の桃山様式の山門。本堂、庫狸は明治の再建。


歴代対馬藩主の墓所に通ずる石段(百雁木)

歴代対馬藩主の墓所に通ずる石段(百雁木)


万関橋の上から開削した水道を見下ろす。

万関橋の上から開削した水道を見下ろす。


上見坂公園から見た浅茅湾。すぐ後方の丘に堡塁や塹壕、砲台の跡が残る。

上見坂公園から見た浅茅湾。すぐ後方の丘に堡塁や塹壕、砲台の跡が残る。


上見坂堡塁の兵舎跡。火砲の格納など多目的に使われたという。

上見坂堡塁の兵舎跡。火砲の格納など多目的に使われたという。

注:対馬に関する参考資料・文献は、現地の運転手某氏からの聞き取りのほか、「街道をゆく13」(司馬遼太郎)、インターネット情報から引用させていただいた。

かみかわ しょうじろう

1935年生まれ。
神戸大学卒。神戸市に入り、消防局長を最後に定年退職。その後、関西学院大学、大阪産業大学非常勤講師を経て、現在、フリーライター。


ページのトップへ

目次 2012年2月号