連載 憧憬の地、芦屋

芦屋に息づく生花の奥義は「自然」にあり

華道未生流(庵家)家元
九代未生菴
佐伯 一甫さん

未生流(庵家)の流祖、未生翁一甫は文化3年(1806)に神道・儒教・仏教の三道の教えを基とする「未生華道」を確立されたといわれています。それまでの生花は流派としては池坊のみで、あとは茶道の茶花、その発展した投入花で自由な感じのものでありました。元禄の頃になると生花の流派がいろいろできます。流祖も江戸で遠州流を習っていましたが、江戸の文化や生花の技術を地方に伝えるため諸国を行脚し、但馬の国で豪農の後援を得て未生流の創流に至っています。
流祖がまとめた伝書では、直角二等辺三角形が流の花矩(はながね)(花の型)とされていますが、それは西洋の美学にも合致しています。それが現代でも色あせしない理由かもしれません。
流祖はあまり社交的な性格ではなかったようで、流の発展を弟子の不濁斎広甫に託し、自分は元祖・未生庵一甫となって再び諸国を遍歴し、奈良の櫟本(いちのもと)(天理市)において亡くなります。流祖の娘(香林堂今日)が流祖の志を継ぎ、今日に至っているのが当流です。
私は、父(八代家元)が早く亡くなったので、15歳で家元を継承することになりました。家元の長男ですから、幼い頃からいつかは家元になるだろうという気持ちはありましたが、まだ中学3年生でしたのでさすがに不安でした。私が家元になった頃から夏期講習会をはじめ、その講師に来ていただいた京都大学の美学の教授、上野輝夫先生から「家元になったのは宿命だと思いなさい」と言われ何かふっ切れた気がしました。〝自分で良いのだろうか〟〝自分にできるのだろうか〟と迷いがありましたが、そう言われてホッとした覚えがあります。そして門下の先生方が一丸となって流派を盛り上げ、私を支えてくれました。そのおかげで今日があると思っています。
当流は花道を単なる遊戯や習い事とするのではなく、花を通して自然に学び、人として生きる道・人倫の道を教えています。日本古来の武道と同じで、人格を高める道であると考えているのです。〝何故花を生けるのか〟というと、花(自然)の美しさはその場所に行って見ることができるが、その場所以外では同じ美しさを見ることはできない。そこで、その花の美しさをより美しく、自然に近づけるため、それ以上のものにする技術を用いて器に生ける。自然と技術のコラボレーション、これが未生流の根本理念、〝虚実等分〟です。
1981年、モナコで今は亡きグレース妃の前で花を生けたことがありますが、非常に喜んでいただきました。花という媒体で、これをより美しくしようとする行為は世界共通でありますが、お生花のシンプルな曲線に精神性を感じられたのか、王妃は大変感動されました。その作品にアメリカ原産であるハナミズキが入っていたので、祖国を懐かしく思い出されたのかもしれません。
未生流(庵家)は、五代家元の頃までは大阪でした。明治の終わりに神戸の住吉に道場を構えましたが戦争で焼け出され、私が3歳の頃京都に移り、20年くらい暮らしました。同志社大学を卒業し本格的に家元として活動するため元の住吉に戻ろうとしたのですが、戦争の区画整理で土地が狭くなっていましたので、教場を建てるに相応しい土地を探しました。高級住宅地として有名であり、文化人が多く住んでおられ、何より当時国鉄の快速が停車して便利だったこともあって芦屋に決めました。
華道界は戦後、アバンギャルドを追い求めて前衛に走る流派が多くありましたが、当流は伝統的な生花を大切にすることを第一に考えました。これからも基本は変わらずですが、時代に沿ったいけ花を追究していかなくてはなりません。いつの時代でも本物であるか否かが大切であると思います。不易流行、温故知新の姿勢で基礎をしっかりした上で、新しきに取り組んでいきたいものです。

薬師寺花会式で献華を行う家元

薬師寺花会式で献華を行う家元


平成23年1月8日に行われた家元いけ初め式

平成23年1月8日に行われた家元いけ初め式

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佐伯 一甫(さえき いっぽ)
華道未生流(庵家)家元
九代未生庵

1958年に九代目未生庵一甫を継承。1989年からは兵庫県いけばな協会会長として県内の華道界の振興・後進の育成に尽力。1994年には兵庫県いけばな芸術文化振興会議の初代議長に就任。現在、全国組織である日本いけばな芸術協会常任理事として、指導的役割を果たす。

素敵に暮らしたいという思いが芦屋の街を心地よく

(株)ツボサカクリーニング工場 代表取締役社長
壷坂佳照さん
日本では昔から着物の洗い張りなどがありましたが、近代に海外から新しい文化のひとつとしてクリーニングが入ってきました。私の祖父である創業者はもともと兄と一緒に須磨で洗濯店をやっていましたが、その後横浜で修行し、100年前に芦屋で創業しました。残念ながらなぜ芦屋を選んだかについては聞いていませんが、当時の芦屋は田んぼだらけだったそうです。
開店当時はまだ着物も多く着る時代で、ほとんどが水洗いでした。しかし、明治末期や大正時代になると洋装化が進み、洋服が増えてくると水洗いでは対応できなくなってきたのです。当時は日本にドライクリーニングの機械がありませんでしたが、祖父は機械に強く、横浜にいたこともあり、昭和初期にアメリカから輸入した機械を横浜から持ち込み、当時では最新の技術だったドライクリーニングをこの辺ではいち早くはじめたのです。当時は機械が高かったので、ほかのクリーニング店から下洗い(洗いだけ)も請け負っていたそうです。また、戦後には横浜に入港していたアメリカの巡洋艦からドライ機を払い下げてもらい、需要に対応していたとも聞いています。その機械はものすごく大型だったそうです。
現在、ここ芦屋本店を拠点に、芦屋市内を中心に神戸市や西宮市にかけて外向営業をおこなっています。よくあるクリーニング店のように多店舗展開はしておりません。また、神戸や大阪のホテル5社の中にランドリー室を設け、そこでお泊まりのお客様の衣類やホテルスタッフのユニフォームなどのクリーニングをおこなっています。
現在も一点一点、職人が丁寧に手仕上げしています。品質や技術を重視していますので、ベテランの職人さんを大切にしています。熟練の職人さんが手がけますので、通常の洗いはもちろん、染み抜きに関しても高い技術を持っていると思いますし、仕上げにも気を遣っています。ホテルでも、クリーニングを出される方はそれなりの方なので、期待に応えるようきっちり仕上げています。
芦屋は本物を知っているお客様が多くいらっしゃいます。一点一点がお客様の思い入れがある衣類ですので、窓口と工場が一体という強みを生かし、お客様と接するスタッフがお客様のご要望をきっちり工場に伝えるようにしています。でも、ただ汚れを落とすという感覚ではいけません。お客様が衣類を出されるのは、きれいになった服を着てどこかに出かけたいというような思いがあるからです。そんなお客様の思いを大切にして、心をこめて仕上げるように心がけています。
クリーニング業界は低調で、家庭クリーニングの支出が20年前からすれば4割ぐらいになってしまっています。洋服のカジュアル化や、家庭での洗濯の増加などの理由で減ってきているのです。そこで、創立100年に向けて原点に帰る必要があるのではないかと、これまでの「クリーニング工場」というイメージではなく、改めて地域のお客様に愛されるショップが必要だと考え、新しい店舗をつくりました。街づくりも大切ですし、この通りに見合った、雰囲気的に全くクリーニング店らしくない、心地よいお店づくりを目指しています。
このあたりはかつて三八通り商店街、本通り商店街や甲陽市場がありましたが、阪神・淡路大震災で全壊してしまい、災害に強いコミュニティエリアへと変化しました。その頃を境に、桜並木のあるこの通りに雑貨屋さんやパン屋さん、ビストロやケーキ屋さんが増え、賑わうようになってきました。普段の生活の中でのちょっとした心地良さがある。それが良いのだと思います。はす向かいにあるイタリアンドルチェのアマレーナさんや、南側のスペースRさんなど素敵な店が街を彩り、それが似合う街になってきたのではないかと思います。芦屋はハードの良さというのではなく、芦屋で素敵に暮らしたいという人たちの思いがあって、その積み重ねがより良い街を生み出しているのではないでしょうか。まだまだ素敵な街になるでしょうね。

茶屋之町の桜並木通りに面する「ツボサカクリーニング」

茶屋之町の桜並木通りに面する「ツボサカクリーニング」


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壷坂佳照(つぼさか よしてる)
(株)ツボサカクリーニング工場 代表取締役社長

1970年、芦屋生まれ。神戸大学卒業、他業種経験後入社。2002年より代表取締役を務め、業界の振興にも活躍。繊維製品品質管理士(TES)。タオルソムリエ。

(株)ツボサカクリーニング工場
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芦屋市茶屋之町1-17 TEL.0797-31-2514
営業時間/月~土曜10:00~18:00 日曜11:00~17:00
定休日/ 木曜日・祝日

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目次 2012年1月号