[海船港(ウミ フネ ミナト)] 〝ぱしふぃっくびいなす〟で訪ねた 国境の島・対馬①

文・写真 上川庄二郎

2010年11月にやっと新設なった対馬・厳原港に着岸停泊する“ぱしふぃっくびいなす”

2010年11月にやっと新設なった対馬・厳原港に着岸停泊する“ぱしふぃっくびいなす”

【対馬・厳原港に新岸壁完成】

クルーズ船〝ぱしふいっくびいなす〟が、神戸港発着で国境の島・対馬に航くという。しかも長年の懸案だった大型クルーズ船の着岸できる岸壁が、2010年11月に完成しているとあっては、ぜひとも訪ねてみたいと夫婦で出かけた。
午前10時に中突堤を出航した〝ぱしふいっくびいなす〟は、24時間後の翌朝10時に新設間もない厳原(いずはら)港岸壁に着岸した。国内では、〝俺が村に港を〟と先を競っている中で、国境の島であるこの対馬に、これまで何故この程度の岸壁ができなかったのだろう。やはり、地元を代表する族議員がいなかった所為だろうか。
よくよく考えてみると、このような国境の島こそ、こういった基礎的なインフラの整備が優先されるべきだったのではなかろうか。
このようなことを言うのも、船内での対馬の紹介に当たった対馬観光協会の担当者の言葉が容易ならない内容だったことだったからである。

【対馬が危ない!】

つまり、「韓国資本が対馬の土地を買い占めている。その場所も、自衛隊の基地周辺の土地で、リゾート施設を建設して多くの韓国人を呼び込んでいる。韓国資本が買い占めている土地は約2万㎡で、現在のところ島の面積の0・26%程度であるが、この他に日本人名義で保有する面積がどの程度あるか、その把握は困難である」という。これを憂えて、対馬市長は、時の防衛大臣(敢えて名は伏せる)に基地周辺の土地は国が買い上げてくれるよう直訴したが、意に介して貰えず、事務方からの返答は、「予算がない」の一言でけり。結果は見ての通りだという。担当者の説明に胸が詰まる。これは只事ではない。

【「非日常」in「国境の島」】

こんなパンフレットを手元に、島の人たちの歓迎を受けながら厳原港の新しい岸壁に降り立った。
私たちは、バスによるツアーには参加せず、タクシーをチャーターした。その方がより忌憚のない地元の話を直接聞けそうだと考えたからである。
事実その通りだった。こんな美しい島が、韓国資本に蝕まれつつある事実を次々と運転手某さんから聞かされ、「これは只事ではない」ことを実感した。帰ってから、インターネット検索を始め、対馬についてできる限りの勉強をしてみたが、ますます只事でないことの実感を強くした。
運転手某さんに対馬を案内して貰いながら知り得た話は次号に回し、彼の言葉を参考に私なりに多少調べた対馬のあらましを書くとしよう。初めに、私は歴史家ではないことをお断りしておく。

【対馬は、古来からの「日本領土」】

対馬は、古来から日本の領土であったことは紛れもない。対馬の北端から釜山までわずかに50㎞、韓国から済州島の方がむしろ遠い。その対馬が、古事記には大八島の一つとして〝津島〟と記され、魏志倭人伝によると対馬国として邪馬台国に属しており、対馬国は倭の一国として登場する。
日本書紀では、神后皇后が三韓征伐の帰途、旗八流を収めたとされるのが和多都美(わたつみ)神社である。
ところが、鎌倉時代、日本は二度にわたる元寇の襲来を受け、対馬は史上最大の受難を蒙った。その報復活動と言っていいのかどうか、対馬を倭寇の根拠地として朝鮮半島周辺で暴れ捲ったため高麗王朝滅亡の原因となったという。
「1392年、李朝朝鮮が成立すると倭寇の懐柔に腐心し、対馬倭寇を駆り立てているのは飢餓であり、米を与えれば静まるのではないかという着想をえた」。「この方針が、後世になって、対馬の島主宗氏を交渉相手として毎年米豆二百石を与えることにした。さらに宗氏らに対して朝鮮の官職を与えた」。「宗氏に示す公文書の中に『対馬は元慶尚道に属する朝鮮領であった』と記して、対馬に米をただでくれてやる名分としていた。これが後に李承晩大統領をして、対馬は朝鮮領だと言わしめたのであろう」。「1951年韓国の駐米大使が、当時のダレス国務長官に会い、対馬の領有を主張した」。「この申し入れに対し、ダレス氏は、対馬は『きわめて長期間にわたり日本領であった』とごく簡潔に答え問題を終了させている」(「街道をゆく13」司馬遼太郎)。こういったことが積み重なって、今なお対馬は韓国領だと主張する根強い思いが韓国人に存在する。それが冒頭に書いた土地の買い占めに引き継がれていると見ていいだろう。

和多都美神社。海に面して建つ鳥居は、満潮時2mも海中に沈む。

和多都美神社。海に面して建つ鳥居は、満潮時2mも海中に沈む。

かみかわ しょうじろう

1935年生まれ。
神戸大学卒。神戸市に入り、消防局長を最後に定年退職。その後、関西学院大学、大阪産業大学非常勤講師を経て、現在、フリーライター。


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