触媒のうた 50

出石アカル
題字 ・ 六車明峰

 

「四月号には季節に合わせて桜の話をしましょうか」と宮崎翁が話して下さったのは、意外にも桜博士笹部新太郎氏のこと。

 笹部新太郎―1887年~1978年。東京帝国大学法科卒。一生を桜の研究と優良種の保存育成にかける。
 「笹部さんは食通でしたよ。おいしい店をよく知っておられ、連れて行って頂くこともありました。また学者さんとお役人嫌いで有名でした。そしてその次に嫌いなのが新聞記者。だけどぼくはなぜか気に入られましてね。
 笹部翁のおっしゃる桜はその辺りにいっぱい咲いているソメイヨシノではないんです。日本古来の山桜のことなんですね。ソメイは幕末に開発された新品種であり、笹部翁に言わすと“品のない桜のクズ”だそうです。園芸業者が扱いやすく、お役所も管理するのに楽な品種ということで、樹齢何百年の大樹になることもなく、薄っぺらな植物だと。本居宣長が詠んだ“敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花”の桜とは似て非なるものだと」
 宮崎翁の著書『文学のおもかげ・東灘』(昭和61年刊)より引用します。

《終生、日本の国花――桜の研究に身魂を傾けた人がありました。笹部新太郎、その人です。水上勉の小説『桜守』(NHKでドラマ化)でようやく世に知られるようにはなりましたが、すでに二カ所の広大な演習林も荒廃し、孤独と失意の老後の身を岡本の自宅に横たえる日が多かったのです。研究の成果も、軽薄な世相の中ではむくわれない九十一年の生涯でした。が、“無償の営み”の人にとって、世間はどうでもよかったのです。
 政治とジャーナリズムに、ひそやかな憂憤を抱きつづけ、昭和五十三年に見まかられました。(略)》

 この後、詩人の竹中郁が、本誌『神戸っ子』、昭和56年11月号に「桜守のおきな」と題して書いた一文を紹介してある。その一部。

《笹部新太郎翁がこの世を去って数年になる。その邸あとが神戸市に買われて公園になったというので見に行った。(略)親からもらった膨大な財産を全部、さくらにつぎこむなんて業はなみの人間にできることではない。(略)笹部さんのおくさんは梅子というて、日本の婦人ゴルファのはしりの一人だった。女房が梅の花、それで自らは桜の花にいのちをかけたというところがドラマチックで面白い。武田尾の山を一まとめに買いとって、その山の木の成育を見守ることを一生の仕事として、政治家でもない一個人がつらぬいたのには誰しもが感心する。(略)》

 奥様の梅子さんとは後に離婚されている。宮崎翁は「そのこと(離婚)があってから余計に桜に心を寄せられたのではないでしょうか」とおっしゃる。その原因もお聞きしたが、それはゴシップネタになるのでここではちょっと…。また小説『桜守』については、「『子守りみたいなタイトル…』とおっしゃってました。まあ冗談半分でしょうが、ご不満そうでした」
 それに関連することを水上勉が『桜男行状』(双流社・平成三年)に添えた文中にチラッと書いている。

《小説は翁にはご不満らしかった。無理もない、一夜漬けの知識で、ちょこざいな物語をねりあげたのだから。(略)ぼくは、翁に好まれる作家ではなかったかもしれないが、(略)》

『桜男行状』は笹部翁の自伝。
 わたし西宮の図書館で二冊お借りしてきました。というのも、一冊は昭和33年平凡社発行によるもの。もう一冊は平成三年、双流社の発行。かなり間隔が空いているのが気になって。
 平凡社の本には笹部翁の毛筆による署名が見返しにある。これは貴重だ。西宮の「白鹿記念酒造博物館」には「笹部さくら資料室」というのがあり、笹部翁から寄贈された桜に関する資料が収蔵されている。この本はそこにでも収蔵されるべきではないだろうか。
 一方、双流社の方には、初版を出して以降に書かれた「御母衣の桜」(この話は感動的。後に映画やテレビドラマになっている)など重要なものも収録してあり、さらに先の水上勉氏の文章などが添えられている。
 大冊だがわたしは面白くて一気に読んだ。笹部翁は元々文人ではないので、達意の文というわけにはいかないが、お役所や社会風潮に対する不満が痛快に描かれている。桜のこと以外に私欲がないから舌鋒鋭い。胸のすく演説を聞いているような感じ。いや面白い爺さんがおられたものだ。こんな個所がある。

 《ものの命とは、生物が本来うけ得べき生命の長さをいうのなら、祇園の桜は天寿を全うしたのではなく、人間に枯らされたのであり、その原因の関係者の怠慢、本当の管理責任者の所属不明の行政の三つに尽きる。これは祇園の桜だけのことではない。動物の死には死ぬのと殺されるのとに差別をつけているが、植物の場合はこの二つをごっちゃにしている。当の桜には迷惑だが、怠慢居士には好都合にできている。今は漢字の間引きばやりの世であるが、木を殺す意味の字を一字だけ作ってほしい。わたしならさしあたり、木へんに官の字をツクリに添えて、からす、とでもしたい。》

 “棺”という字はすでに“ひつぎ”としてあるが、まことに皮肉っぽい。そしてユーモア精神。こんなのがいっぱい。しかし実体験に裏づけられているから説得力がある。
 宮崎翁が体験された重要な話を一つ。
 「岡本の笹部さんのお家へ伺った時に、庭に小さな桜がひょろっと生えているのに気づきました。それを指して笹部さん、『不思議なもんだねえ、生えてきたんだ』とおっしゃいました」
 これが後に「ササベザクラ」と名づけられた新品種の桜である。笹部翁はご自分で「五歳桜」と名づけて慈しんでおられたという。五年目に花をつけたからと。やがて話題になり、アサヒグラフや毎日グラフのページを飾ることにも。晩年近くになって神様からのご褒美のように笹部邸の庭に新種の桜が芽生えていたのだった。昭和35年、笹部翁73歳の時。後には「自分が死んだあと、家は壊してもこの桜だけは残してほしい」とおっしゃっていたと。
 そこでわたし、花にはまだ早かったが、この笹部邸跡の岡本南公園、通称「櫻守公園」へ行ってみた。
 細い道を入って行くと、閑静な住宅街の中に、見事に整備された美しい公園があった。水路を回し、小さな滝までが作られている。公園は上下二段になっていて、ササベザクラをはじめ約十種類の桜が配置よく植えられている。ゆっくりと散策したのだが、ある説明板に「惜しくも原木は平成10年に枯死しました」とある。ササベザクラのことだ。多分あの震災で大事な根が切れたのだろう。まことに残念なことだが、その子孫は各地に広がって根づいているし、この公園にもたくさん育っている。
 写真を写して、さて帰りだ。
 そばの道を掃除する老人がおられた。年ごろから考えて、多分笹部翁と面識があっただろうと思われた。そこでわたし声をかけました。
 「生前の笹部さんのことをお聞きしたいのですが」と。すると、
 「柔和なお顔の方でしたよ。いつもベレー帽をかぶって、朝晩この道を通っておられました。偉いお人でしたから、わたしはあまりお近づきにはなれませんでしたが、一度叱られたことがありました。うちの椿の木が道に大きく張り出していたものだから、枝を切ったんです。そしたら、『花びらが散り敷く道を歩くのが楽しみだったのに』と」
 指さされる方を見たら、なるほど太い枝が根元で切られた痕がある。
 「けれども女性には優しい人でしたよ。うちの家内がまだ若いころ、何かの用事で行ったら、歓待を受けてなかなか帰って来ないというようなことがありました」
 なんだかうれしくなるエピソードである。
 この公園、阪急岡本駅のすぐ西北にある。本誌が出るころにはソメイヨシノとは違った、上品で美しい花が咲き誇っていることだろう。読者のみなさんも一度行ってみられたらいかが?わたしも、もう一度訪ねてみよう。

20150407001

笹部新太郎にちなんだササベザクラ 撮影・山田洋三氏(西宮自然保護協会会員)

笹部新太郎にちなんだササベザクラ
撮影・山田洋三氏(西宮自然保護協会会員)

東灘区の岡本南公園(櫻守公園)

東灘区の岡本南公園(櫻守公園)

■出石アカル(いずし・あかる)

一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。


ページのトップへ

目次 2015年4月号