第十五回 兵庫ゆかりの伝説浮世絵

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中右 瑛

忠臣蔵異聞 寺坂吉衛門 逃亡の謎? 播州姫路へ…

元禄十五年十二月十四日、赤穂浪士四十七人は吉良邸に討ち入った。討ち入り後、浪士一行は泉岳寺の浅野内匠頭(たくみのかみ)の墓前に報告、そのあと自訴し公儀の沙汰を待った。浪士たちは、細川家、松平家、毛利家、水野家に分散されお預けの身となる。
 翌年二月、幕府は知識人、賢者を集め評議があり、判定が決まった。武士の面目を考え全員切腹を申し渡された。二月四日夕刻、各大名家に分散されていた浪士たちは切腹して果てた。しかし切腹したのは四十六人、一人足らない。吉田忠左衛門(行年六十四)の家来で足軽・寺坂吉衛門(きちえもん)がいない。はて?どうしたのか。逃亡か?
 それは討ち入り後、一同が泉岳寺に行く途中に吉衛門は消えた。大石内蔵助の指図があったのではないかと推測されている。
「討ち入り事件を正しく後世につたえるべし」
 という生き証人の役目であった。幕府が事件を隠したり、または幕府の都合の良いように歪曲されぬよう、という配慮であった。
 寺坂は足軽の身分で、幕府も重要視していなかったのでは?という意見もある。しかし身分が低いと云えども集団テロの犯罪者の一人である。追跡し裁かなくてはならない。あるいは寺坂は討ち入りに参加せず、快挙を見届けたのち逃亡したのではないか、との見方もある。それが証拠に、寺坂を追及・追跡していない。その場合、討ち入りは四十六人と訂正しなくてはなるまい。
 寺坂は逃亡後、真っ先に南部坂の未亡人・浅野奥方・瑶泉院(ようぜんいん)へ快挙を伝えた。その後、播州亀山(姫路)に立ち寄ったことが判明している。十二月二十七日、自分の主人・吉田忠左衛門の妻りんがいる姫路に向かった。ここには吉衛門の妻せんも身を寄せていた。吉衛門は八歳の時から吉田家に来て育ち、りんは母親のような存在だった。りんやせんはもう会うことはないと思っていた吉衛門が帰ってきて、ことの次第を聞いた。家老・大石さま、忠左衛門さまのことなど、しかし、なぜ?吉衛門がここにいるのか、複雑な気持ちであったろう。が、播州亀山で死んだことにして墓を建てた。追跡を逃れる策であった。吉衛門がその後、赴任した各地に吉衛門の墓があるのはそのためであったと思われる。この後、安芸の浅野大学にも立ち寄った。忠左衛門には娘がいて姫路藩士・伊藤十郎太夫治興(はるおき)に嫁いでいた。りんに従って吉衛門夫妻は伊藤家に身を寄せた。姫路藩主・本多忠国が没し幼少の嫡子・忠孝は越後村上へ転封され、伊藤家やりん、吉衛門も村上へ移り住む。しかし、本多家の都合では三河国刈谷、その後、下総国古河、石見国浜田、三河国岡崎へと転じた。その間、忠左衛門の未亡人りんが死亡。六十五歳であった。
 享年二年(一七四五)吉衛門の妻せんが没した。続いて延享四年十月六日、吉衛門は生涯を閉じた。吉衛門は生涯、吉田家、伊藤家に忠実に仕え、討ち入り四十五年後に死亡した。八十三歳だったという。妻と同じく曹渓寺に葬られた。
 伊藤家は吉衛門夫妻の法名を過去帳に載せ命日には回向を欠かさず、家族同然に扱ったという。吉衛門は身分こそ低いが、生涯、篤実な言行、忠実に武士道を貫いた。
 吉衛門は『寺坂信行筆記』を残しているが、そこには討ち入りの記載は一切ない。
 四十七士か?四十六士か?討ち入り前に離脱か?討ち入り後の逃亡か?ミステリーは残ったままだ。

歌川国芳画「誠忠義士傳 寺岡平右衛門信行」(仮名となっている)

歌川国芳画「誠忠義士傳 寺岡平右衛門信行」(仮名となっている)

■中右瑛(なかう・えい)

抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。
1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。


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