
連載 憧憬の地、芦屋
肥沃な文化の土壌は美しい芦屋の風土から
山村サロン
山村 雅治さん
芦屋で芸術や文化が栄えた理由として、ひとつは関東大震災が挙げられます。震災後に東京の人たちがこちらに来た。文化人や芸術家も住まいを移しました。その代表が谷崎潤一郎です。思想家・政治学者の丸山眞男も、父が毎日新聞の記者で、震災で芦屋に越してきました。
そして、神戸という街が港町で国際的にも有名で、ロシア人が革命の時に逃れて神戸に来て、その近くで住むにはと美しい芦屋に来たのです。芦屋に来たのは音楽家が多く、音楽家の貴志康一の先生もいました。
芦屋ゆかりの画家といえば小出楢重ですが、彼は大阪の出身でフランスに留学し、帰国後芦屋に住むようになりましたが、「芦屋の風景はニースの風景に似ている」と自らの随筆に書いています。山が近くて、浜の方は松林。これは芦屋がまだ村であった時代に生きていた人たちが偉かったと思うのです。明治・大正時代、芦屋川はもっと広かったのですが、改修して川沿いに松を植えたのです。そして、国道2号線より上の方は桜が植わっています。桜と松は偉大な遺産です。
芦屋の芸術を語る上で欠かせないのが、吉原治良が結成した具体美術協会です。活動はダイナミックで、既成のものを打ち破るエネルギーが渦巻いていました。吉原は嶋本昭三や元永定正などの弟子たちに「誰も作ったことのないものを作れ」と教えていました。具体は海外の美術評論家(フランスのミシェル・タピエ)の目に留まり、芦屋から世界へと広まっていきました。
具体と並び芦屋を代表するのが、中山岩太とハナヤ勘兵衛を中心とする芦屋カメラクラブです。芸術写真は東京よりも芦屋が先で、作品も世界レベルです。
音楽では貴志康一ですね。甲南高校を中退しヨーロッパに渡り、ベルリンでカール・フレッシュにバイオリンを習い、現地でSPレコードを出しています。裕福な家庭でしかできなかったことでしょうね。帰国後も国内ではじめて暗譜指揮による「第九」を演奏するなど活躍しましたが、残念ながら28歳で亡くなりました。
芸術のみならず、前述の丸山眞男も、ノーベル化学賞の利根川進さんも芦屋に住んでいました。同じく野依良治さんもです。村上春樹さんも高校時代まで芦屋でした。いまNHKで放映されている朝ドラマで話題のコシノヒロコさんは現に住んでおられます。
文化人だけでなく財界人も多く居を構えていました。山口吉郎兵衛(山口財閥当主・滴翠美術館)はじめ、商売が大阪で芦屋に住むという方が多く、竹中工務店の竹中錬一会長も芦屋神社の近所に住んでいました。JR芦屋駅前のラポルテを建設する時、基礎固めの工事現場に普通の格好をしたお爺さんが来て、あちこち見ている。それで、昼前に竹中工務店の本社にラポルテの建設責任者が会長に呼び出されて、あそこがどうだと細かなだめ出しをしたそうです。そう、そのお爺さんが竹中錬一さんだったのです(笑)。自分の住んでいる芦屋で下手な仕事はできぬと、現場を熱心に見にいってたのです。僕の今住んでいる家が、昭和10年代の竹中錬一大工棟梁の設計施工ですので、どこか身近に感じますね。
白洲次郎も芦屋生まれですし、吉原治良もそうですが、時に芦屋からは時に型破りな人物が出てくるのですね。そういう新しいものを創り出すエネルギーの基盤は、芦屋の風土にあると思うのです。風通しが良いでしょ。そして見通しも良い。山と海があり、人間が完全に自由でいられる環境なのです。
阪神・淡路大震災で芦屋は瓦礫の山となりましたが、山と川、そして海があるこの風土が失われない限り必ず復興すると思いました。全市を公園のようにしたいという山中健市長の意見には賛成です。しかし、芦屋の発展には観光都市になることが必要です。人を集める音楽祭・演劇祭などの企画や、文化人もたくさんいますのでその活用も考えないといけません。
私の娘はいま東京で学生をしていますが、子どもを育てるなら芦屋がいいと言っています。それはやっぱり風土。眺める景色が他の街と違うし、川で遊んだり、山に登ってうり坊を見たり、海まで歩いて行けるし、都会にいながらそんなことができるなんてあり得ないのです。芦屋では四季に応じた自然の美しさを、ゆったりとしたリズム感で感じることができるのです。

藝術交響空間◎北辰旅団の舞台に立つ山村さん。

山村サロン女声合唱団で指揮をとる山村さん。

山村サロン
山村 雅治さん
山村 雅治(やまむら まさはる)
1952年芦屋生れ。神戸高校を経て法政大学英文学科卒。芦屋・山村サロン代表。活動は精神史家、詩人、作家、指揮者、役者、モデルなど多岐にわたる。1995年の震災を契機に小田実氏らと「被災者支援法」をつくるために「市民=議員立法」運動を展開。著書に「マリア・ユージナがいた」「宗教的人間」(リブロ社)、「自録・市民立法」(藤原書店)などがある。
山村サロン
芦屋市船戸町4-1-301
ラポルテ本館3階
TEL.0797-38-2585
http://www.y-salon.com
人々のライフスタイルが芦屋のブランドを育む
ホテル竹園芦屋 代表取締役社長
福本 吉宗さん
竹園は今年で創業65年ですが、読売巨人軍様が常宿としてお越しになったのはちょうど55年前になります。当時は食糧難できっちりとごはん、特にお肉を食べさせるというのは難しい時代でしたが、竹園がお肉をいっぱい食べさせてくれると聞いた当時の水原監督が食べに来られて、これは間違いないと。当時からお肉にこだわっていたので、美味しく召し上がっていただけたのではないかと思います。
読売巨人軍様は名古屋や広島などの遠征先やキャンプ地の宮崎で宿舎を利用されますが、55年間一度も変わらず泊まられているのは竹園だけと聞いています。私どもは1年1年が勝負と、お肉をはじめとしたお料理やサービス、施設をきっちり提供させていただいています。もちろん、お泊まりの際は全館貸し切りになります。
旅館時代のマッチには「スポーツマンの宿」と書いてありましたが、今なお野球を中心にスポーツ界全般のみなさまにご利用いただくことを大切に考えています。読売巨人軍様がお泊まりいただいて、その1年後から当時巨人に追いつけ追い越せと頑張っていた中日ドラゴンズ様にお泊まりいただいたり、水原監督が後に東映フライヤーズ(現・日本ハムファイターズ)様に移られたりといろいろなご縁がありまして、これまで最多で5球団にご利用いただきました。現在は読売巨人軍様と中日ドラゴンズ様、そして、中日時代にご利用いただいていた星野様が監督として就任した東北楽天ゴールデンイーグルス様にもお泊りいただくようになりました。
私は芦屋で生まれ育ちましたが、昔とあまり変わらない部分があると思います。芦屋は市ですけれど、「芦屋村」という部分を持っているのと思うのですね。横の結びつきが非常に強いなと思います。また、富裕層の方が多いというのもありますけれど、みなさんの生活のスタイルが優雅だと感じますね。芦屋のみなさんは普段のお買い物に行かれる時にも少しおめかしされて、小ぎれいな格好をされています。そして日常の言葉遣いが非常にきれいですね。一方で、そのような方のニーズは厳しいものがあり、「芦屋で商売が成功すればどこでも成功する」と言われているほどです。本当に昔からの人は「この値段ならこれくらい」とシビアですので、気が抜けません。
竹園のベースはここ、芦屋です。事業展開も地元密着抜きでは考えられません。大阪方面や東京方面からいろいろとお話はいただいていますけれど、まずここで基礎の部分をしっかり確立し、原点回帰して日々見直しをかけていきたいと思っています。そして、芦屋のみなさまにもっとご利用いただき慣れ親しんでいただけるようにホテル、レストラン、精肉とも日々精進していかなければいけないと思います。
中にいるとあまり意識しませんが、外から見ると芦屋にはブランド力があるように思います。それは横のつながりであったり、芦屋のみなさまのライフスタイルであったりしますので、きっちりと芦屋の街を守ることが大切だと思います。私どもも芦屋の名に恥じぬような商売をしていきたいですね。

ホテル竹園芦屋
代表取締役社長
福本 吉宗さん
福本 吉宗(ふくもと よしむね)
昭和44(1969)年生まれ。1993年、桃山学院大学経済学部経済学科卒業。1993年、相互信用金庫入庫。1994年、株式会社竹園入社。2006年、株式会社竹園代表取締役に就任、現在に至る。代表取締役就任後、芦屋市商工会総代他、諸団体要職を歴任する。神戸市東灘区在住
ホテル竹園芦屋
芦屋市大原町10-1
TEL.0797-31-2341
http://www.takezono.co.jp
芦屋らしい「品の良さ」をオリジナルの商品に
株式会社 かね徳 代表取締役社長
東村 具德さん
大正14年9月に、創業者の東村德太郎が芦屋の三八通り商店街で商売をはじめたのがかね徳のルーツです。その後、戦争の混乱など紆余曲折を経て、メーカーの仕事に専心するようになったのは戦後です。その当時は深江の工場が拠点でしたが、手狭になり昭和55年に工場を篠山へ、本社機能を三宮へ移転したのですが、阪神・淡路大震災後1年ほどして創業の地へ帰ろうと本社を芦屋に再移転しました。
昭和26年に創業者が「くらげうに」という創作珍味を開発しましたが、これが日本初の創作生珍味です。それが作られたのも芦屋にあった創業者の自宅でした。ですから芦屋は創作生珍味の発祥の地でもあるのです。
かね徳を代表する商品、とびっこは昭和44年に2代目の東村克德が開発しました。インドネシアの現地で漁や一次加工の仕方を指導して発売しました。最初は北海道で売れはじめ、その後全国に広がっていったのですが、北海道の人は魚卵が好きなので売れるのではないかと。北海道では今も8割のシェアがあり、「とびっこのかね徳」というイメージですね。ちなみに「とびっこ」という名称は弊社の登録商標です。ほかにも瓶詰めのうに、粒うにや練りうにもシェアの高い商品です。
商品アイテムは現在550くらいありますが、常に開発を進めています。開発は本社ならびに篠山工場のスタッフと、福岡にいる営業本部長でおこないますが、それぞれの場所をスカイプで結んでおこなっています。かれこれ6年前からこの方式です。かつては移動で1日仕事でしたが、ネットを活用すると時間をセーブできますので、会議の回数も月2度から3~4度できるようになり、商品開発のスピードも速くなりました。この企画開発会議を通じ、年間約60~80アイテムを開発しています。
開発した商品が売れるかどうかは、売ってみないとわからない部分があります。3年前に発売したえんがわユッケ風という商品は、もともとアメリカ産コガネカレイの縁側のうちすしネタにならない小さいものを原料に活用できないかと、商品開発担当1年目の女子社員が企画しました。開発会議では市場に受け入れられないのではないかとみんなが思いましたが、1年生社員がはじめて開発した商品なのでと、一般的な商品の半分以下の小ロットで、業務用で販売してみたのです。ところがこれが大ヒット、軍艦巻きで使われて人気が出て、1億売れる商品になりました。
かね徳の商品はスーパーなどの量販店向けが約5割、業務用が約5割の比率ですが、唯一、芦屋に小売店「かね徳芦屋工房」を出店しています。創業の地、芦屋は大きな存在ですし、私自身も芦屋生まれ芦屋育ちですので、芦屋に愛着があります。かね徳芦屋工房の商品は芦屋テイストの上質な商品を目指し、かね徳本体の商品とは別にしています。例えば「極粒いくら」は北海道の根室は野付産で、鮭が水揚げされてから4時間以内に加工しています。漬け込み液も有機丸大豆醤油や灘の純米吟醸酒、利尻の昆布や枕崎の鰹を使用、保存も脂が酸化しないようにマイナス60℃で、余計な添加物も使用していません。何よりも脂の乗りや皮の堅さが最適な時期を見極め、加工日まで選定しています。かね徳芦屋工房で人気のスティックのうに「御所姫」は芦屋観光みやげにも認定されています。
かね徳はメーカーですが、スタートは小売の商売です。お客様と直接ふれあって、商品やサービスに対する反応から学ぶことは多いのです。ですからかね徳芦屋工房があることは、お客様の反応がわかるという意味で大きいのです。特に芦屋のみなさんは舌が肥えていますし、本物を知っておられます。芦屋では美味しくてサービスが良くないと続かないのです。
芦屋はゴージャスというより、落ち着いていて住みやすい街です。私どものブランドでも芦屋の「品の良さ」を強調しています。弊社の商品を通じ、全国で芦屋が上品な街という印象を持っていただけるようになれば嬉しいですね。

かね徳を代表する商品、「とびっこ」という名称は登録商標。
北海道では今も8割のシェアを占め「とびっこのかね徳」で親しまれる

「極粒いくら」は北海道の根室は野付産で、
鮭が水揚げされてから4時間以内に加工する

えんがわユッケ風は、商品開発担当1年目の女子社員の
発案し、ヒット商品となった

かね徳芦屋工房で人気のスティックのうに「御所姫」は
芦屋観光みやげにも認定されている

創業の地、芦屋に「かね徳芦屋工房」を出店する。
店内には芦屋にふさわしく上質な商品が並ぶ

株式会社 かね徳 代表取締役社長
東村 具德さん
東村 具德(ひがしむら とものり)
株式会社かね徳 代表取締役社長
1965年芦屋市生まれ。1989年早稲田大学卒業。同年株式会社東村德太郎商店 入社(後に株式会社かね徳に社名変更)。1999年株式会社かね徳常務取締役就任。2007年株式会社かね徳代表取締役社長就任。全国珍味商工協同組合連合会青年部連絡協議会副会長。兵庫県珍味商工協同組合青年会会長。
株式会社 かね徳
兵庫県芦屋市業平町4−1 イムエメロード 6F
TEL.0797-35-7900
営業時間/午前10時〜午後6時
定休日/日祝祭日