特集「選ぶ楽しさ」 製造と小売でブランド力 ikari

いかりスーパーマーケット
代表取締役社長
行光 博志さん

 

―いかりスーパーといえば、高級感とともに、お馴染みの紙袋が浮かびます。30年前の芦屋店オープン時に作ったものですか。
行光 それまではいろいろなバッグを使っていましたが、いかりスーパーのイメージを感じてもらえるものはないかと考えました。当時はデザインなど全て社内で行っていましたから、私がイメージした市松模様を書き、社員にデザインを描いてもらいました。私の意図するところをくんでくれて、出来上がったデザインが今もそのままです。
―丈夫でイメージが良く、愛用されている方も多いようですね。
行光 食料品というのは意外と重いものです。何を入れるか分かりませんから、お客さまが持って破れたら大変です。20㌔の重みに耐えられものを作ってもらいました。素材は砂糖の袋に使うものを指定しました。私は元々菓子屋ですから、丈夫なことは知っていました。
―第一号・塚口店オープンから12年間、他に店舗を出さなかった理由は?
行光 その理由は簡単、まずお金がない(笑)。人材がない、そして私自身に経験がなかったので、12年間は修行の時代でした。昭和36年当時は全国にたくさんのスーパーができ始めたころで、周りのスーパーは次から次へと店舗を増やしていました。私もやりたくてしかたなかったのですが、次の店舗の責任者に据える人材が足りなかったんです。同業者の先輩方にも相談したところ、他が増やしたからといって流されるな、人材が育ってからにしろと教えられました。
―当時から既にプライベートブランドの発想は持っておられたのですか。
行光 それ以前からです。スーパーを始める前から兄が洋菓子の製造卸をやっていましたから、商品づくりについてはある程度分かっていました。セルフに合う条件としては中が透けて見える入れ物が必要だと思って用意し、紀ノ国屋さんに倣ってオープン当初から商品を出しましたが、数が消化できず入れ物がたくさん残ってしまいました。
―スーパー経営のお手本にしたのは東京の紀ノ国屋さんですか。
行光 始める時、見に行きました。東京オリンピックの前ですからまだ100坪程度の小さな店舗でしたが、中を見てびっくり仰天。どんどんできてくる同じようなスーパーをたくさん見て回りましたが、「この店だけは違う! こういう店を造ろう」と心に決めました。それから週に1回、自分の店の定休日前夜に夜行列車に乗り、また夜行列車で帰って来る繰り返しで、紀ノ国屋さんに通いました。肉、野菜、グロッサリー、チーズなどそれぞれのセクションで仕事をする人が皆、名人芸のようでした。感動しました。社長さんにお会いして話を聞かせていただくうちに、「この人が専門名人をつくる人なんだ」と納得しました。ゆっくりといろいろなことを教えていただくようになり、それが私の全ての原点になっています。
 その後だんだん仲間が増えました。勉強会ができ、持ち回りで会場にするには自分の店には場所がない。そこで店舗を建て替えました。仮ごしらえではない、思い切り立派な建物にしました。お金もないのに(笑)。
―では、プライベートブランドの始まりもそのころですか。
行光 私はものづくりが専門です。スーパーを始めるずっと以前、元ドンクの職人さんと一緒に洋菓子づくりをやっていました。そのお蔭で私もグレードの高いパンや洋菓子を作ろうという気持ちを持つようになったのが原点にあります。スーパーを始めてからも商品の原料はよく見ていましたし、楽しみでもありました。ところが製造メーカーさんはたくさんあるのに納得できる商品がなかなかない。紀ノ国屋さんに行くと、自社で作ったパンなどがありました。そこで、ちょうど空いていた洋菓子屋の工場を利用してパンを作り始めました。
―お兄さんの「いかり堂」で働いた経験が生きているのですね。
行光 兄は神戸の洋菓子屋で修行を積み、「いかり堂」を創業しました。3年ほど経ったころ、私も高校を卒業して見習いとして入りました。ものづくりが好きでしたから…、ところが見習いの仕事に耐えられず、一度は岡山に帰ってしまいました。親に説得され、また兄に呼び出されて戻ってきました。それから一生懸命になり、仕事をたくさん覚えました。
―社長室には厨房もあります。ご自分でも商品開発をされるのですか。
行光 ものづくりは一つ覚えれば、後は応用です。さすがに今はもう社長室の厨房で作るというようなことはしません。工場でできたものを試食して、改善点を指示しています。私がやっているのは製造小売業です。街のお豆腐屋さんが裏で豆腐を作り、表で売っているのと同じ。もっと美味しいものを作りたいという思いで、新しい商品を開発しています。
―いかりのプライベートブランドは評判がいいですね。管理や配送が大変なのでは?
行光 お蔭さまで今は何百種類、数え切れないほどの商品がありますが、工場と温度管理がきちんとできる配送センターを一体化しましたので、造ったらすぐ配送できます。食の安心・安全が何より重要な時代ですから、専門家集団で工場と配送センターを運営しています。表示管理士の有資格者を置き、工場で働く従業員も表示管理について私よりもずっと詳しくなっています。安心・安全は食べ物を扱う企業としての責任だと思っています。
―インポートも社長ご自身が?
行光 日本セルフサービス協会の輸入促進ミッションを任されていた当時、会員さんを集めていろいろな国の見本市を回りました。そのお蔭でコツを覚えました。その後輸入専門の会社を立ち上げ、社員を連れて海外へ出かけました。今は若い社員が育ってくれましたから、彼らが手分けして行っています。
―今後も新たな店舗展開をされると思いますが、どういう点を重要視されるのですか。
行光 まず商売として成り立つかです。いかりを支持して頂けるお客さまがおられるか、当社が得意とする商品のグレードを認めていただけるか。大阪や三宮のターミナルはお話をいただいた時、阪神間のお客さまも多いですから、いかりとは相性が良いだろうと「大丈夫」と判断しました。
―今後の抱負をお聞かせください。
行光 いかりの商品を認めていただける地域を求めて、更に店舗展開していく予定です。工場もそれに対応できる規模で準備しています。真面目に仕事をして、値段はそれほど高くなくても中身は質の高い商品を皆さまにお届けできるようにと思っています。
―楽しみですね。私たちも期待しています。ありがとうございました。

 

オリジナル商品の中から数々のヒット商品も誕生した。マドレーヌもそのひとつ

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いかりスーパーマーケットの強みでもあるオリジナル商品の数々。工場と温度管理ができる配送センターを一体化することで、食の安心・安全に重点を置く

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いかりスーパーマーケットのお馴染みの紙袋は、30年前の芦屋店オープン時に作ったもの

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いかりスーパーマーケットの第一号となった塚口店

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行光 博志(ゆきみつ はくし)

1936年岡山生まれ。1955年 兄が経営する神戸元町の「錨堂」にて洋菓子製造の修行を行う。㈱いかりスーパーマーケット創業、専務取締役に就任。1981年代表取締役社長に就任。1991年社団法人日本セルフ・サービス協会(現:社団法人新日本スーパーマーケット協会)会長に就任。趣味は、世界中の珍しい美味しい商品開発めぐり。


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目次 2011年11月号