浮世絵にみる 神戸ゆかりの「平清盛」 第13回

中右 瑛

頼朝の首を!……と叫んで狂死する清盛

仁安二年(1167)、太政大臣にまで上り詰めた清盛は、わが世の春を謡歌したに違いない。がしかしすべてを悟ったかのごとく翌年、病により突然の出家。しかし「僧衣の下から鎧が見える」と人々は揶揄した。
清盛一族にとって、よきこと悪しきことが次々に巻き起こる。
娘の徳子が高倉天皇に入内(1171)。清盛は天皇家とつながりができてその地位を利用して権勢をほしいままにした。一門の公家、殿上人、知行国多く、「平家にあらざる者は人にあらず」とまで騒がれた。しかしながら清盛の嫡男で最も信用していた重盛の死去(1179)には、清盛の落胆は大きい。
各地で起こる平家反発の声。俊寛僧都らの平家討伐の陰謀で世にいう鹿ケ谷事件(1177)では一党を鬼界が島に流罪。院政を封じ込む手段として後白河法皇を幽閉(1179)。孫の安徳天皇を強引にも即位(1180)。というさまざまな横暴に、源氏方も黙ってはいない。
以仁王(高倉天皇の異母兄)を擁した源三位頼政の反乱。木曽義仲の挙兵。源氏再興の声も大きくなり、遂に旗揚げをした頼朝は、治承四年(1180)、伊豆の国・山木判官兼高を倒して初戦を飾った。
十二歳で伊豆の国・蛭が小島に流されて以来、雌伏二十年目の快挙で、いよいよ本格的な源平合戦時代に突入した。
京に戻った清盛ではあったが、各地における源氏台頭のすざましい勢いに、こころ穏やかではなかった。その首謀者・源頼朝追討のために、息子の宗盛を関東に派遣しようとした矢先、原因不明の熱病にかかった。
清盛は高熱の中、ひどくうなされた。さまざまな者の怨念にとりつかれ、三日三晩悶え苦しんだ末に「墓前に、頼朝の首を!」との遺言を残して狂死したのだ。
養和元年(1181)二月、ときに六十四歳。
遺骨は、彼が生涯で最も力を注いだ摂津の経が島(神戸・築島)に納められた。
平家領袖・清盛の死は、平家滅亡につながる。これを機に、反平家勢の攻撃が激しくなってきたのである。
この図を描いた絵師は、幕末から明治にかけて活躍した大蘇芳年。歴史絵をよく描き、なかでも武士やその修羅場ものを得意とした。
二十年前、アメリカで「将軍ブーム」が起きたが、浮世絵師の中では、芳年が真っ先にもてはやされた。サムライ、ハラキリなど、彼は常に、死に直面した武士の世界を絵にとりいれていたからであろう。芳年は、殺し、死の美学の極限を追及したあまり、自らも錯乱に陥り、狂死した。それだけに、この絵には、死を直前にして狂う清盛の姿と、絵師・芳年が錯乱する朦朧の世界とが二重映しに、見る者に迫ってくる。人物の表情や姿態は、浮世絵画法の従来の型を破ってリアルに描いている。
また、絵の地獄の亡者の中に、清盛よりも先に死んだ息子・重盛の姿が見える。重盛は父・清盛を諌め続けた人物で平家の良心とまでいわれ清盛がもっとも信頼していた人物。重盛の死がまた、清盛の死期を早めたとも言われている。それほどに信頼していた息子を地獄の使者として描いたところに、芳年の強い批判精神が窺がわれる。清盛の生涯は波乱万丈であった。
平家全盛の一時代を築いた清盛ではあったが、武将として政治家としての力量もさることながら、経済人として海外貿易に目を向けた大きな視野を持った人物は、日本史上一流のものであった。

大蘇芳年画「平清盛炎焼病之図」

大蘇芳年画「平清盛炎焼病之図」

中右瑛(なかう・えい)

抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。


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目次 2013年1月号