昭和初期の栄町通。商業と金融の中心として栄えていった

その美、その壮、実に名状べからず かつて、東洋のウォール街とよばれた「栄町」

 今の栄町一帯はかつて二ッ茶屋村、走水村という2つの村で、東西を横切る西国街道沿いに集落があるほかは、海岸に沿って田畑が広がるのどかな田園地帯だった。
 慶応3年(1868)に神戸が開港するが、外国人の居住は外国人居留地に限られていた。しかし、もともと低湿地で環境が悪く、整備も遅れていたことなどから英・仏・蘭の代表から苦情があり、政府は明治2年(1869)に居留地周辺を雑居地に指定し、外国人の居住を認めた。その西端は宇治川と定められた。
 ところが、居留地から宇治川へ結ぶ道は、幅3m程度の西国街道くらいしかなかく、両側には建物が並び、これでは外国人が馬車ですれ違うには狭すぎで、拡幅も難しい状況だった。
 そこで、神戸港の基幹道路とすべく、居留地の西端である鯉川と宇治川を結ぶ幅18mの近代的道路、栄町筋が計画された。当時画期的だったこのプロジェクトを手がけたのは、関戸由義という人物。福井藩藩士だったが、幕末の混乱に乗じて二束三文で買い叩いた書画や骨董、刀剣などを持って渡米、サンフランシスコで高値で売り、それで得た資金をもとにアメリカで最新式の銃器を仕入れて帰国、日本で売り込んで財産を作ったというやり手だ。一旗揚げようと神戸に来て私塾を開いていたところ、兵庫県から招聘されたという。
 先見の明があった彼は、都市としての神戸の将来性に着目。ただ単に道路を建設するのではなく、道路沿いの土地も造成する。間口7間(約12・6m)以下の建物の建設を禁じるなど区画の整理も並行しておこない、土地を豪商や、財閥などへ売却した。道路を基本として新しい都市づくりを目指したこの計画は、わが国における近代的都市計画の第一歩とも評されている。
 かくして栄町通は明治6年(1873)に開通した。人々はその立派さに驚き「あまりにも広すぎるのでは?」という声もあがったが、それに対し関戸は「いや、まだ狭いかもしれない」と答えたという逸話が残っている。
 しかしやがて、それが現実となるくらいの発展をみせるようになる。開通の翌々年に神戸駅が開業すると、神戸の玄関口と居留地を結ぶメインストリートとなり、続々と洋館が建てられた。開通直後に第一国立銀行神戸支店が、明治9年(1876)三井銀行神戸支店が設立され、さらに貿易金融・外国為替に特化していた横浜正金銀行の神戸支店も設けられて金融業務の中心地になっていく。それにともない保険業や貿易業など企業も集積し、海運業で成功した後藤勝造(後藤回漕店の創業者)や日豪貿易の礎を築いた兼松房次郎(兼松の創業者)など、財界の大物たちも栄町を拠点に活動した。
 明治20年(1887)頃には正岡子規が「その美、その壮、実に名状べからず」と評するほど整備され、明治末期には市電も開業。大正時代に入ると第一次世界大戦の好景気で活気に満ち、荘厳なビルが建ち並ぶ経済の中心地となり、「東洋のウォール街」とよばれるように。「栄町を歩けば下駄の歯に金貨が挟まる」という噂まで流布したというから、想像を絶する賑わいだったのだろう。
 栄町の繁栄の象徴は、鈴木商店の躍進だ。明治7年(1874)に輸入砂糖商として鈴木岩次郎が創業、樟脳や薄荷も取扱うようになり、神戸屈指の貿易商に。明治27年(1894)に岩次郎が急逝すると「お家さん」こと岩次郎夫人のよねが主人となり、番頭の成田富士松・金子直吉を両輪にさらに発展を遂げる。
 明治33年(1900)には台湾産樟脳油の販売権の大半を獲得。明治35年(1902)頃からは製造業へも進出し、貿易であげた利益を投じて新しい工業の育成をおこなったが、天才的な手腕で工場を続々と建てた金子は、「煙突屋」という異名をとったという。
 さらに企業買収などにより事業を多角化。第一次世界大戦を予見した金子は価格の暴騰を見越して鉄や食料などを確保し、それを物資調達に悩む欧米で売り莫大な利益を上げる。大正6年(1917)にはGNPの約1割の売上げを記録。巨大財閥を抑えて日本一の総合商社になり、世界にその名を轟かせた。
 ところが昭和2年(1927)、恐慌の影響などであっけなく倒産してしまう。しかし、残した事業と人材はその後もわが国の経済を支え、神戸製鋼、双日、帝人、日本製粉、サッポロビール、J-オイルミルズなど、鈴木商店をルーツとする企業は今なお日本の産業をリードしている。
 現在の栄町は戦前の賑わいは失せたものの、銀行や保険会社、貿易会社が立地し、風格と落ち着きのある街並みにかつての栄華をしのぶことができる。
 街には明治33年(1900)築の旧三菱銀行神戸支店(現ファミリアホール)や大正10年(1921)築の旧帝国生命保険神戸出張所(現フットテクノビル)など、戦争や阪神・淡路大震災などを耐え抜いた戦前の建築もいくつか現存。東京駅の設計で知られる辰野金吾が手がけた明治41年(1908)築の旧第一銀行神戸支店の壁面や、大正14年(1925)築の毎日新聞神戸支局のファサードなど、優雅な洋風建築の一部が保存されているだけでなく、近年では新しい建物がその優雅なデザインを受け継ぐケースも。古き佳きを愛する企業や市民たちの努力により景観が守られている。
 かつては「モダン」の先端を行っていた栄町界隈。時を経てそれが「レトロ」な魅力となり、神戸の栄光を今に伝えている。

みなと元町駅(旧第一銀行神戸支店)。明治41年、東京駅の設計で知られる辰野金吾による。現在は外壁のみ残る

みなと元町駅(旧第一銀行神戸支店)。明治41年、東京駅の設計で知られる辰野金吾による。現在は外壁のみ残る


明治中期の栄町通。明治6年に栄町大通がつくられて以降、レンガ造りの商館が続々と建てられた

明治中期の栄町通。明治6年に栄町大通がつくられて以降、レンガ造りの商館が続々と建てられた


ファミリアホール(旧三菱銀行神戸支店)。ルネッサンス様式が美しい設計は曽禰達蔵による。明治33年築

ファミリアホール(旧三菱銀行神戸支店)。ルネッサンス様式が美しい設計は曽禰達蔵による。明治33年築


栄町が金融街として栄えた面影をのこす栄町ビルディング。現在は雑貨店などが入居している

栄町が金融街として栄えた面影をのこす栄町ビルディング。現在は雑貨店などが入居している


中山岩太《神戸風景(居留地)》1939年頃 中山岩太の会所蔵

中山岩太《神戸風景(居留地)》1939年頃 中山岩太の会所蔵


中山岩太《神戸風景(居留地)》1939年頃 中山岩太の会所蔵

中山岩太《神戸風景(居留地)》1939年頃 中山岩太の会所蔵


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目次 2015年8月号