E・H・ハンター(1843-1917)

北野とE・H・ハンター

 北野坂の西側に、「ハンター坂」と呼ばれる通りがある。かつてこの坂の北側に、英国商人E・H・ハンターの洋館があったことに由来している。
 1843年にアイルランドで生まれたハンターは、アジアに憧れ、22歳で来日した。ペリー来航後、安政6年(1859)に開港していた横浜港で、ハンターは雑貨やマッチの輸入商キルビーと出会い、商社員としてその実務を助けた。慶応3年(1867)の兵庫開港にあたり、キルビーが新境地として神戸に向かうと、ハンターもこれに同行し大阪に移住。小野浜にできた造船所に入った。ここで、薬問屋・平野常助の娘、愛子と知り合い、結婚。長男の龍太郎はじめ5子に恵まれた。
 その後、明治7年(1874)に神戸にE・H・ハンター商会を、明治14年(1881)には大阪で大阪鉄工所を創設する。船舶のみならず、陸用機関機器、橋梁の製作も手がけた。三菱造船、川崎造船と並ぶ日本三大造船所に成長した大阪鉄工所は、後に日立造船へと発展することになる。この他、煉瓦や肥料、煙草、精米、損害保険など次々に事業を起こし、「範多財閥」を形成した。
 事業を成功させたハンターは、地元有志より北野天満神社の周辺一帯3000坪の土地を譲り受け、北野の地に自らの“理想郷”をつくった。広大な敷地内に立派な日本家屋を建て、庭に植えた桜を眺めながら晩年を過ごしたのである。この桜は、現在ではハンターの妻に因んで『愛子桜』と呼ばれる夫婦桜として生き続けている。
 ハンターは、日本家屋建築の少し後に、同敷地内に瀟洒な洋館を移築しているが、こちらは昭和38年に王子公園に移築され「旧ハンター住宅」として国の重要文化財に指定されている。一方、日本家屋は北野に残され、今日では「北野ハンター迎賓館」の名で、着物が映えるブライダルの場に活用されている。
 大正6年(1917)75才で死去したハンターは、神戸の再度山修法ヶ原外国人墓地に、妻の愛子とともに静かに眠る。その名前は、「ハンター坂」という名前とともに人々の記憶に刻まれている。また、このハンター坂から、「にしむら珈琲」や「フロインドリーブ」といった神戸を代表する名店が生まれたことも、忘れてはならないだろう。

 

北野坂の西側に、「ハンター坂」と呼ばれる通りがある

北野坂の西側に、「ハンター坂」と呼ばれる通りがある

 

かつてハンター坂の北側に、 ハンターの洋館があった

かつてハンター坂の北側に、
ハンターの洋館があった

 

北野にあった洋館は「旧ハンター住宅」として王子公園に移築されている

北野にあった洋館は「旧ハンター住宅」として王子公園に移築されている

 

現存する神戸異人館で最大規模。国の重要文化財にも指定されている

写真提供:神戸市教育委員会
現存する神戸異人館で最大規模。国の重要文化財にも指定されている

 

写真提供:北野ハンター迎賓館 ハンターが晩年を過ごした日本家屋は北野に残され、「北野ハンター迎賓館」の名でブライダルに 活用されている

写真提供:北野ハンター迎賓館
ハンターが晩年を過ごした日本家屋は北野に残され、「北野ハンター迎賓館」の名でブライダルに
活用されている

 

邸宅の主であったハンターを偲ぶことができるモチーフ

邸宅の主であったハンターを偲ぶことができるモチーフ

 

写真提供:北野ハンター迎賓館 北野ハンター迎賓館の桜。ハンターの妻に因み、愛子桜の愛称で親しまれている

写真提供:北野ハンター迎賓館
北野ハンター迎賓館の桜。ハンターの妻に因み、愛子桜の愛称で親しまれている

 

ハンター坂で産声をあげた神戸にしむら珈琲 中山手本店

ハンター坂で産声をあげた神戸にしむら珈琲 中山手本店

 

震災後、移転したフロインドリーブの発祥の地もハンター坂

震災後、移転したフロインドリーブの発祥の地もハンター坂


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目次 2015年9月号