触媒のうた 1

―宮崎修二朗翁の話をもとに―

出石アカル
題字・六車明峰

前連載「コーヒーカップの耳」に度々登場して頂いた人に宮崎修二朗さんという方がある。兵庫県文苑のご長老と紹介してきた。
博覧強記とはこの人のことをいうのだろう。文学に関する疑問はこの御仁に聞けば立ちどころに解決する。
兵庫県の文学史についてもすでに数々の著書、紙誌に書きつくしておられるが、中に、ご自分では書きにくいこともあって、それが結構貴重な証言だったりする。この新連載では、そんな秘話を書いていきたいと思っている。放っておけば、それらの話は記録されることなく消え去ってしまい、あまりにも惜しい。

その人の略歴。
1922年 長崎市生まれ。
1941年 文部省図書館講習所(現・国立筑
波大学)卒。
1951年 神戸新聞社入社。出版部長・編集委委員を歴任。「のじぎく文庫」を企画創設、初代編集長。
1987年 大阪芸術大学・神戸学院女子短期大学・浪速短期大学に出講。国語表現論・情報論・言語芸術・日本文学・児童文学を講ずる。
1999年 神戸史学会賞受賞。
2000年 神戸史学会代表。
芦屋市在住。
      ※     ※
掲載の、並んだ本の写真を見て下さい。これ、宮翁さん(宮崎修二朗氏のことをわたしは、敬意と親しみを込めてこう書く)の著書のほんの一部ですが、何か気づくことはないでしょうか?
そう、本の背中、背表紙です。
中の一冊、『文学の旅・兵庫県』の背表紙には著者名がない。なんとも間の抜けた姿である。だが、これが宮翁さんの記念すべき処女出版本なのだ。
「バカな上司がいましてね。表紙を印刷する時には、一枚の紙に表紙、裏表紙、そして背表紙も印刷するんですが、『神戸新聞社の名が一ヵ所なのに宮崎の名前を二ヵ所も書くことはない』と言って、背表紙に刷らせなかったんです」
なるほど、それで背表紙に著者名がない。しかもそんなことがまかり通ってしまう。
「そんな程度ですよ。新聞社といえば皆さん、賢い人間ばかりと思っておられるかも知れませんが、そんなことないですからね」
この『文学の旅・兵庫県』の装丁は須田剋太。剋太さん、この時49歳。後に司馬遼太郎に同行しながら「街道をゆく」の挿絵を描き続け、広く世に知られることになる。
発行所、神戸新聞社。
昭和三十年十月二十五日、第一刷発行。
宮翁さん、33歳だ。お若い。この本、その年齢で書けるようなものではない。
文人知事として親しまれた当時の知事阪本勝氏が自発的に書いて、社へ届けたという序文にこうある。全文紹介したいが、中の一節。
「この種の著作は、ちょっと類例のないものであって、いろいろの意味からひろく一読をすすめたい本である。」
また、神戸の“野の碩学”落合重信氏は「全国で最初に、私らは郷土の文学誌を手にすることが出来た」と「歴史と神戸」誌に書いている。
人様のお役に立ってるからいいのだが、と言いながらも宮翁さん、
「だからね、こんな本を書いた老人!はもうとっくの昔に死んでるだろうと思われてね、無断で引用されてることがよくあるんだ」とぼやかれる。
引用ならまだしも、自分のものとして盗用もあったと。ここでは名前を秘すが、それが後に有名になった人だったりする。
そうでしょうねえ。これだけのものを、わずか33歳の人が書いたとは誰も信じられない。
そこで、翁の話。
「ぼく、これ書く時、特別の勉強はしなかったんだ。データはみんな記憶してましたからね」
驚きました。
「戦前、千葉県野田市の図書館にいた時に、やたら乱読して兵庫県関係の本も読んでたんです。その時には後に神戸に来るなんて夢にも思ってなかったんですけどね」
この『文学の旅・兵庫県』は、昭和29年から30年にかけて神戸新聞に連載された「郷土文学アルバム」を大幅に加筆改訂されたものである。連載中から人気を博し、一本にまとめられるのを待たれたのだ。発行部数を宮翁さんに訪ねたが、
「覚えてないなあ、3000部ぐらいだったかなあ。すぐに売り切れてしまってね、増刷を望む声が多かったんだが、社は『必要ない』ということでした」
しかし、申し込みは殺到している。さて、宮翁さん、どうしたか?          つづく

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出石アカル(いずし・あかる)

一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。喫茶店《輪》のマスター。


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目次 2011年3月号