連載 浮世絵ミステリー・パロディ ㉗ 吾輩ハ写楽デアル

中右 瑛

中右瑛の「少年絵師・鳥居清政説」

「写楽祭シンポジウム」の三番手に登場した中右の「少年絵師説」は、ショッキングでドラマチックである。写楽がナント! 十八歳の少年だった、というのである。まず中右の話を聞こう。

「私が写楽に憑(とりつ)かれるようになったのには、理由がある。人に勧められて買った一枚の写楽役者絵を後生大事に秘蔵していたのだが、その写楽が実はニセモノだった。しかも巧妙なニセモノづくりのからくりが分かった。大正時代のニセモノ作りの名人が絡んでいたのである。騙した商人が賢いのか、騙された自分が無知だったのか、商人自身もわからなかったのか。

そんなことより自分が勉強不足だったことに気づき、それなら浮世絵をとことん蒐(あつ)めて研究してみようと思い立ったのである。
そんな私の前に現れた一枚の浮世絵。私はその絵を見て驚いた。手が震えた。それは『幻の名品』といわれるものであったからだ。
私は以前からこの絵を探し求めていたにも関わらず、お目にかかることはなく、すでに諦めていたのである。それが唐突にも私の前に現れたのである。
驚いたのはそれだけではない。この絵に“写楽が潜んでいる!”と直感した。ひょっとして、“ナゾの絵師・写楽の正体が掴めるかもしれない!”と思った。
これだけの傑作を描いた絵師は一体誰なのか。絵師の名は鳥居清政。
清政は人気絵師・鳥居清長の子で、不思議な運命に操られた少年絵師。天才的な腕を発揮したにもかかわらず、十七歳のとき、『幻の名品』を描いた直後、こつ然と画界から消えた。
『幻の名品』とは雲母(きら)摺り豪華版で『江戸紫娘道成寺』と題された人気女形・岩井半四郎の姿絵。これだけの名品を描く腕がありながら突如、消えたのはナゼか? その直後の写楽の出現…が重要なポイントである。
そこにナゾが隠されていると直感し、清政を追った。
清政が消えたのは、寛政五年(1793)の秋。そしてその翌六年(1794)五月、写楽が現れたのである。
父の清長は浮世絵界の名門・鳥居家四代家元としてよく知られているが、その子・清政のことは余り知られていない。活躍期は一年ほどで、遺作品が殊の外少ない。浮世絵師列伝にも記録されていない。
少ない資料から推定される、清政像と鳥居家相続問題。
鳥居家とは元禄より続いた由緒ある家系で、歌舞伎看板絵、芝居番付表を独占していた大元締めである。父・清長は鳥居本家の正嫡への義理立てにより、本家正嫡・庄之助に次期家元を譲り、わが子・清政を退陣させるために無理やり筆を折らせたのであった。そこには家元継承問題が絡んでいたのである。
お家騒動に巻き込まれて筆を折らされた清政を不憫に思った版元・蔦屋は、清政の再起を図った。「東洲斎写楽」というどこの門閥にも絡まない新画名を考え、画風も変え、覆面絵師として起用した。ときに清政十八歳だった。
私はコレクターの経験からあぶり出された浮世絵界の秘話が絡む写楽新説本『写楽は十八歳だった!』を発表した」

“事実は小説より奇なり”の例え通り、この説はあまりにもドラマチックな展開だが、封建時代の犠牲となった数奇な少年絵師がいたことは事実である。

この中右瑛説と池田満寿夫説とに噛み付いたのが、当時『芸術新潮』に「写楽」を連載中だった、哲学者の梅原猛先生だ。梅原先生は「写楽は豊国だ!」を発表し、写楽別人説は、いよいよ混迷時代に突入したのだった。

中右瑛・著「写楽は十八歳だった!」里文出版

中右瑛・著「写楽は十八歳だった!」里文出版

中右瑛(なかう・えい)

抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。
1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。


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目次 2011年3月号