ボーイスカウト精神の模範になる 「三吉道」のすすめ 最終回

ボーイスカウトの心

文 濵田 耕次

江戸時代後期、遠州灘で遭難し、アメリカ北西部に流れ着いた岩吉、久吉、音吉の「三吉」は地球をほぼ一周する旅の果てに母国の海岸までたどり着くが、鎖国政策にはばまれて帰国がかなわなかった。「三吉」はマカオや上海で日本の漂流民たちの世話を続けた。

私たち日本ボーイスカウト兵庫連盟が、フォートバンクーバーに、三吉史実顕彰碑を建てたのは、「三吉」の史実がここを訪れる青少年に感動を与え、ボーイスカウトの神と国と、他人への奉仕を自らの「つとめ」とする精神の模範になると考えたからだ。そのかぎが「三吉」の自立と忍耐力、友情と親切と奉仕の中にある。私はこれを「三吉道」と名付けて、多くの人に知ってもらいたいと願っている。
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「三吉」のうち岩吉、久吉はイギリス官庁で通訳として働きながらマカオを中心に日本漂民を援助したことが、詳しくはないが、断片的に知られている。
音吉は栄力丸の一行を日本へ送り出して後、一八五四年九月、スターリング艦隊の通訳として長崎で日英最初の和親条約調印のために働いた。音吉は一八四四年ごろから上海に住み、イギリス国旗の下で生きようと決意して名前をJ・M・オトソンと改め、同じデント商会に勤めるイギリス人女性と結婚していた。彼女が病死するとマレー人と白人との混血女性と再婚、一八六二年シンガポールに移住し、日本最初の欧州派遣使節団がこの地に立ち寄ったとき、一行の一人福沢諭吉に国際情勢を説明している。諭吉はその旨書き残しているが、音吉は船乗り出身でありながら豊富な国際知識を身に着けていた。
音吉は一八六七年四十八歳で没したが、その三年前にイギリスに帰化、シンガポール市民となり受洗してプロテスタント日本人墓地に入った。音吉は人生の終りにキリスト教徒となり神の義を得たのだ。生前長男のJ・W・オトソンに「私の代わりに日本に行って帰化せよ」と遺言、長男は横浜で帰化し山本乙吉となり一八八三年から三十五年ほど神戸に住んで居留地で働き、一九二六年、台湾の台北で死亡した。享年七十九。
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なぜ私は「三吉道」にこだわってきたのか、もうお分かりでしょう。「三吉」の物語はボーイスカウト運動の基本的精神をも表していると思うからだ。「道」は人や車が往来し目的地に向かうために利用するところ。転じて、万人が考え、行う事柄の道理を意味する。華道、書道、茶道などは人の心を楽しませ、暮らしを豊かにさせる奉仕を目的とし、武士道は戦士としての職分のみならず高潔な日常生活の規範を示す。だが初めから「道」があるわけではない。「道」はだれかが未知の世界を歩いた後に作られ、その道を求めて通る人たちが切磋琢磨して完成させていくのだ。
ボーイスカウトのリーダーになるためW・B(ウッドバッジ)研修所に入るとき「道心門」と呼ぶ門をくぐるが、「道心」とは人間本来の正しい道徳心のことで、ボーイスカウトはその心をもって良き公民として平和の使徒となり国家、社会に奉仕するのである。私たちはそれを「スカウト道」と呼ぶ。私は三吉が漂流に打ち勝ち、異国で困難を乗り越えて得た道は、まさに「三吉道」として私たちが学び、習うべき規範だと信じている。

アメリカ・ワシントン州・バンクーバー市のフォート・バンクーバー国立史蹟公園ビジターセンターの 右側サイトに立つ三吉史実顕彰記念石碑

アメリカ・ワシントン州・バンクーバー市のフォート・バンクーバー国立史蹟公園ビジターセンターの
右側サイトに立つ三吉史実顕彰記念石碑

一八三二年(天保三年)十月尾張の国知多郡小野浦の宝順丸が大阪出航後遠州灘で難破。その一年二ヶ月後乗組員の三人、岩吉、久吉、音吉がワシントン州北西部Neah Bayに日本人としてはじめてアメリカの土を踏む。一九八九年七月ボーイスカウトアメリカ連盟シアトル第五三隊との合同訓練を行った日本ボーイスカウト兵庫連盟派遣ローバー隊は、これを記念し史実保存のためワシントン州一〇〇年祭委員会とともにここにこれを建つ。
一九八九年八月一日


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