連載エッセー/コーヒーカップの耳 100

出石アカル
題字 ・ 六車明峰

兵庫県文苑のご長老、宮崎修二朗氏(宮翁さん)から聞いた幻の詩人、北山冬一郎の話の続きである。

      
北山には、『祝婚歌』という詩集の前に、『風の中の歌』という第一詩集がある。わたし、未見でしたがこのほど見ました。
わたしのブログを読んで下さっている人、松岡高さんが所持しておられて、頼んで見せて頂いたのです。
昭和二十年十二月一日発行。
手にとってみると、思ったよりしっかりした本である。後に裏出版した贋作『小説 太宰治』のような粗雑さはなく、終戦の年に出たとは思えない。
第二詩集『祝婚歌』は年が明けてすぐの昭和二十一年一月二十日に出ている。その改訂版が同年四月二十日。矢継ぎ早である。
売れたのですねえ。その当時、人はよほど文化に飢えていたのでしょうか。
この『風の中の歌』の“あとがき”に注目。情報としては知っていたが、改めて驚きました。
いきなりこうだ。
「もともとこの詩集はいま少し早く世に出る筈でありました。そのために太宰治氏の序文と鈴木信太郎氏の装幀を頂いて居りましたのでありますが、いろいろの事情でおくれ遂にあの三月十三日に於ける大阪空襲に於いて小宅は全焼致し、それと共に原稿その他一切は失はれたのであります」
太宰に序文をもらっていたと。しかし本当であろうか。後半でこう書く。
「ただ不幸にも太宰氏の序文と鈴木信太郎氏の装幀は永久に私の許へかへって参りません。(略)太宰氏の序文はうろ覺へながら暗記して居ないでもありませんが、それをそのまま再録することは、私の敬愛する氏への取るべき道ではないことと思い涙と共に捨て去ることに致した次第です。(略)いまさら他の方へ序文をお頼みするのは私の良心が許しませず(略)」
わたし、どうも信用できないなあ。それなら、もう一度太宰に頼めばいいではないか。しかも、別所直樹が『太宰治 失意の遺書』に、「ぼくは北山を二人(太宰と田中英光)に紹介した」と書いているように、北山が太宰に初めて会ったのは、昭和22年である。面識のない人に序文を頼めるものだろうか。しかも太宰がそれに応じるだろうか。 
装幀にしてもそうだ。再度頼めばいいのにね。この話が本当なら、彼がどちらも諦めてしまうなんて考えられない。
わたし今、この本の表紙を眺めていてあることに気づきました。原稿用箋の赤い升目を背景に筆字で“詩集 風の中の歌”“北山冬一郎”と書かれている、その書体だ。
この本、松岡氏にお借りしたが、梅崎氏の情報では奈良の図書館が所蔵しており、それには署名があったのだと。そのコピーをわたしは梅崎氏から提供されていたのだ。こうある。
  
 五味康祐様 恵存
 これら青春徒労の記録を
 悲しみ以て 君に手渡す
 君は何を以てこれを受取
 るであらうか
       北山冬一郎
 
その書体が、この詩集の表紙の字と似ているのだ。そういえば『祝婚歌』(初版)の表紙字もそうだ。わたしが見たかぎりでは同一人物である。ということは、北山冬一郎が装丁したということだ。みんな自分でやったのだ。なんか涙ぐましいですねえ。いじらしくさえあります。
話のついでに、芥川賞作家五味康祐との関係。
これも梅崎氏からの情報だが、これは実際に交流があったようである。その出典も教えて頂いたが、ここでは省く。五味氏、まだ剣豪作家としての名声上がる以前のことである。
本当のこともあるのだ。
さらに疑問の点。
松岡氏にお借りした、この本の中に一枚の紙片が挟まれていた。「訂正御通知」とある。
予約を取っての発行だったのだろうか。
「北山冬一郎氏詩集「戀歌」はさる方面の御指示に依り改題の止むなきに至り」で始まる文は、発送が遅くなった理由と、一行脱落の訂正が書かれ、こう続く。
「『風の中の歌』は豫想外の好評にて忽ち一冊も餘さず賣り切れました。その熱望に應えるべく本社では矢繼ぎ早に、北山冬一郎氏第二詩集『祝婚歌』を紙質装幀を更に厳選して世に送ります。ご愛讀賜はらば幸甚です。定價は拾圓(送料共)で御座居ます故、代金同封の上至急小為替書留にてお申し込み下さい。図書出版 新風社」
これもどうも怪しいなあ。第三者的な書き方だが、わたしには御当人が書いたとしか思われない。
当時の四国の詩人八十島健が、あるところに、新風社は北山冬一郎が創立した、と書いている。さらに、『風の中の歌』『祝婚歌』の発行人は冨士田健一となっており、これは北山の本名である。ちなみに、昭和30年発行の文化人名録には、“ふじたたてかず”とルビが振ってある。但しわたしは、この人名録が昭和30年に出ているからといって、彼がこの時存命していたとは確信できない。ここに住所も載っており、健一とは別の所帯主の名も載っているが、それは多分、古い資料によるものだと考える。
わたしが“怪しいなあ”というのは、みんなみんな、あっという間に売り切れたという、そのことです。これホントでしょうか。
別所の書いたのにこんな個所がある。
 「ぼくが彼と初めてあったのは、昭和二十二年の夏の日だった。Kはリュックサックに自分の詩集『祝婚歌』を詰め込んでぼくを訪ねてきた。」
これは改訂版でしょうが売れ残っていたんですねえ。あれはかわいいウソだったのでしょうか。
でもまあ、宮翁さん(宮崎修二朗氏)の話では、ずいぶん羽振りのいい時があったというから、相当売れたのは間違いないのだろう。八十島健も「祝婚歌の北山冬一郎といえば、四国でも知る人が多かろう」と書き、「新風」華やかなりし頃、などと書いている。
もう一つ情報。
最近出た『書影でたどる関西の出版100―明治。大正。昭和の珍本稀書―』(創元社)に、驚くなかれ、この北山冬一郎が取り上げられている。
その中の一節。
―「七百部、普及版、定価五円五十銭也」とある紙貼りの奥付を剥がすと、「五百部限定、頒価金三円五十銭」という別の奥付が現れ、云々―
面白いですねえ。この『書影でたどる…』では、「なんとも慌ただしい時代である」と続くが、わたしはつい別のことを考えてしまう。たしかに異常なインフレの時代ではあったのだろうが、これも北山の作為の匂いがしてしまうのだ。でもこれは、わたしの穿ち過ぎでしょうかね。
  
北山冬一郎について、嘘八百の人のように書いてきたが、彼が高名な作曲家、團伊玖磨と交流があったのは事実である。別所も書いているが、團の家に寝泊まりしていたこともあったようだ。だが、後には離れたらしい。宮翁さんもこう仰る。
「團伊玖磨はいいとこの出ですからねえ。北山とはうまくいかないでしょう」と。
  
今回で「北山冬一郎」を終えるにあたり、もう一度、別所の著書『太宰治 失意の遺書』から。
  
―(略)その時からすでに十数年の歳月が流れた。風のように東京に現れたKが、さっぱり姿を見せぬ。(略)
「Kはいったい、どうしたんだろう。富山の方で行き倒れになったという風の便りだが、本当だろうか」
「そんなことはない。Kはあっさり死ぬヤツじゃないよ。文芸年鑑にヤツの名前が出ていたぜ」
ぼくらは酔うとKの噂に花を咲かせる。Kを偲ぶことによって、ぼくらは昔の青春を夢見ているわけなのだ。
  
 風にふかれ
 風にさからひ
 旅人われは
 如何にせむ
      (旅愁)
  
と詩ったKは、いまも風の中を歩いているだろうか…。―
いやあ、かわいいですねえ。まるで山頭火のように周りの者を振り回し、いつか立ち直ろうとしながら果たせず、の人生である。
山頭火の最期は知られているが、この北山冬一郎は行方知れずのまま、春の霞のように情報が消えてしまっている。ただ、梅崎氏が調べられたところによると、彼には玲子さんという奥さんがあったし、菜穂子という娘さんも得ている。だが、当然のように離婚していて後の消息は知れない。
 
この話の第一回目に 「北山冬一郎という詩人は、最後は神戸で亡くなってますねえ」という宮翁さんの言葉を載せた。
しかし、これには確たる証拠はない。昭和二十年代後半に、浮浪者収容所を取材してきた同僚記者から、「浮浪者の一人が、神戸新聞なら宮崎という記者がいるだろ、と言ってましたよ」という話を聞いたというのである。ところが宮翁さんは、「あんなペテン師と、もう関わりを持ちたくなかったので放っておきました。多分そこで死んだんだろうと思う」ということである。
やはり、彼のホントの最後は誰も知らないのだ。
わたしもこれ以上、彼の戸籍調査はしたくない。幻のままでいいのではないかと思う。
北山冬一郎は今もどこかの街をかわいいウソをつきながら放浪しているにちがいない。
 日暮れ
 ひぐらし
 ひぐれに哭く
 ひとひ空しく
 むなしく暮れて
 夕焼
 わが掌を
 かなしく染めぬ
 日暮れ
 ひぐらし
 ひぐれに聞く
 (ひぐらし)
  
 そのひととめぐりも逢はず
 そのひとと語らふを得ず
 あはれけふも
 紫陽花の花は咲くなり
 七月の陽もくるめき
 そのひとにめぐりも逢はず
 紫陽花の花は咲くなり
              (紫陽花)
           ※

 今回を持って「コーヒーカップの耳」を一旦終えます。長らくご愛読ありがとうございました。
 次号からは、少し形を変えてまた書かせていただきますので、変わらずご愛読のほどお願いいたします。

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「画廊喫茶《輪》」 絵・菅原洸人

「画廊喫茶《輪》」 絵・菅原洸人

出石アカル(いずし・あかる)

一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。喫茶店《輪》のマスター。


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