ボーイスカウト精神の模範になる 「三吉道」のすすめ その四

漂流者を帰還させる使命

文 濵田 耕次

江戸時代後期、遭難してアメリカ北西部に流れ着いた船乗りの岩吉、久吉、音吉の「三吉」はマカオに送られてきた。遭難から五年後の一八三七(天保八)年にアメリカの商船モリソン号で浦賀まで来たが、浦賀奉行は、モリソン号に砲撃を加え、追い払ってしまった。「三吉」たちは母国に受け入れられず、異郷で、自分の力だけを頼りに生き抜かなければならなくなった。

          ◇
「三吉」のうち岩吉と久吉は舟山(チュアンシャン)の行政官となったギュツラフの下でイギリス貿易監督庁の通訳として、岩吉は寧波(ニンポー)のイギリス領事館で、久吉は舟山で働き、日本漂民を支援した。岩吉は一八五二年、妻の不義事件の渦中で死亡。久吉は一八六二年四三歳で福州に住み、以後消息不明。
遭難当時十四歳で三人の中で一番若かった音吉は、三人共々マカオへ戻った後、一人アメリカの商船で乗組員として働き、二十五歳になると上海へ行ってイギリスの貿易商デント商会の上級社員として働いた。
一八五〇(嘉永三)年、兵庫津を出港した兔原郡大石村(灘区大石町)の千五百石船栄力丸が江戸からの帰り、和歌山の沖で遭難した。船は南鳥島あたりまで漂流したが、アメリカの商船に発見され、乗組員十七人はサンフランシスコに届けられた。乗組員の中にはいまの播磨町出身で、のちに「日本の新聞の父」と呼ばれる浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)も乗っていた。三年後、船頭が死に、日本に帰ると牢獄に入れられると信じた彦蔵ら三人が香港からサンフランシスコへ戻り、残る十三人がアメリカ軍艦で上海に来て音吉に会った。
音吉は栄力丸の一行を自分の家に引き取って、安全に日本に帰す機会を探していた。ペリーの艦隊が「日本に行くから十三人を連れていく」と、力づくで取り戻しに来たとき、音吉は「日本はまだそんな状況になっていない」と断った。音吉は上海から日本の政治状況をつかんでいたのだ。
その後、音吉は「いまなら安心だ」と一行を送り出し、無事に帰国させた。音吉は栄力丸の乗組員に「自分は漂流して、父母への孝養ができなかったから、せめてみなさんのような漂流民を母国に帰還させるように努めたい」と語っている。外交関係のない異国で、民間の外交官としての役割を果たしていたのだ。
そうした能力を認められて、音吉はイギリス海軍の通訳として日英の橋渡しに努めている。一八四九年には下田へ、一八五四年には長崎へ赴いた。長崎では祖国のために日英交渉の間に立って日英和親条約の締結に貢献した。音吉は長崎奉行に帰国を勧められたが「男女子供見捨て難し」と断った。異境で作った妻子とのきずながあった。幕府はこの報告に何の反応も示さなかった。
長崎での交渉のとき、幕府の役人は、水夫出身でありながら幕府の役人を前にして平伏しない音吉の態度に驚いたが、音吉はすでにそのとき日本の身分制度を超越した国際人になっていて、個人の尊厳を自覚し、自らの主体性を確立していたのであろう。
人は三吉の自立と勇気のある奉仕を軸とした生き様を「三吉道」と呼び、その集約を音吉の人格の中に見るのである。

フォートバンクーバー国立史蹟公園の三吉記念石碑の三吉像。右から岩吉、久吉、音吉。山口昌俔氏のイラスト

フォートバンクーバー国立史蹟公園の三吉記念石碑の三吉像。右から岩吉、久吉、音吉。山口昌俔氏のイラスト


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目次 2011年2月号