ボーイスカウト精神の模範になる 「三吉道」のすすめ その参
鎖国と千石船
文 濵田 耕次
江戸時代後期、日本の周りに欧米の船がやって来て通商を求めているころ、遠州灘で遭難し、アメリカ北西部に流れ着いた岩吉(二十八歳)、久吉(十五歳)、音吉(十四歳)の「三吉」は、帰国の機会を待つためにイギリスの船でマカオに送られてきた。東シナ海で遭難した肥後の国の船乗り四人もマカオに流れ着いた。はたして「三吉」たちは故郷に帰ることができるのだろうか。
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中国・広州のアメリカ・オリファント商会の貿易商チャールズ・キングは、七人を日本に送り届けることによって、幕府と接触し、通商交渉を進めたいと考えた。彼らを乗せたオリファント商会のモリソン号でマカオを出港し、琉球で「三吉」の世話をしていたドイツ人宣教師カール・ギュッツラフと合流し、一八三七(天保八)年七月三十日に浦賀にやってきた。
ところが浦賀奉行は、幕府の打払令に基づいてモリソン号に無警告砲撃を加えた。打払令は幕府が沿海の大名に「外国船が近付いてきたら即座に砲撃して追い払え」と命じた防衛策で、「無二念打払令」とも呼ばれ、話し合いも許さない命令だった。
キングは幕府との交渉をあきらめて、琉球とかかわりの深い薩摩藩に頼ろうと考え、モリソン号を薩摩の児が水(ちがみず・現在の山川町)の沖合1000メートルほどのところに碇泊した。しかし薩摩藩も打払令を盾に話し合いを拒否し、砲撃して追い返した。
特に五年ぶりに日本の山を眺めながら上陸することができない「三吉」の悲しみはどんなだっただろうか。
マカオに戻るモリソン号で、悲嘆にくれる「三吉」たちにキングは「こうした状況になったからには、それぞれ自立して、自分の手で食を得る努力をせよ」と諭した。
「自立して」ということは、深い意味がある。人は生まれた土地の人々に支えられて育ち、きずなを深めながら働き、家族とともに生きていく。その安全を国家が保障してくれる。だが「三吉」は保証してくれるはずの国家から追い払われ、見ず知らずの三度も開国に利用された異国で自分の手で食を得る努力をし、国家から放逐された異邦人として、自分の才覚と精神力で自分の世界を築いていかなければならないのだ。
マカオに戻った「三吉」はそれぞれの個性と能力に応じて中国で「自立」していった。岩吉と久吉はイギリス貿易監督庁の通訳となった。音吉は上海に渡り、イギリスの貿易会社デント商会の高級社員になった。三人はしばしば洋上で救助されて送られてくる日本人漂流者の世話をし、米英・中国の政府機関に働きかけて帰還させる活動を行った。「自分たちのような悲惨さから救いたい」という気持ちだった。「三吉」は異邦人から国際人、コスモポリタンとして人道援助支援の道を進んだのだ。
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「三吉」が知るよしもなかったことだが、モリソン号への無警告砲撃は幕府の外交政策論争をひき起こし内部からも批判の声が起こった。五年後に打払令は廃止され、代わって「外国船が入港したら薪や食料を与えよ」とする薪水給与令が出された。アメリカの捕鯨船が日本の船乗り二十二人を救助して浦賀に送ってきたときは十分な燃料と食料を与えられたこともある。モリソン号事件の当事者となった「三吉」は日本の外交の方針を大きく転換させたことになった。

モリソン号。「にっぽん音吉漂流の記」
(春名徹著)より模写
イラスト/濱田耕次