
マキシンとパリを結んだ画家 赤木曠児郎氏
高度経済成長の中、おしゃれが街にあふれだした昭和30年代、マキシンは流行の「一歩先」を行き、女性たちの羨望を集めていた。そのモードはファッションの最先端、パリのエスプリをふんだんに盛り込んでいたが、実はその陰に一人の画家の存在があった。
インターネットで世界の果てから最新の情報が入手できる現代と違い、当時は海外の情報を得るだけでも至難の業。しかし、マキシンには、定期的に最新のモードの情報が入ってきた。その情報をもたらせたのがパリ在住の画家、赤木曠児郎氏であった。
赤木氏とマキシンの創業者、渡邊利武は不思議な縁で結ばれていた。赤木氏が学生だった昭和28年頃、彼の郷里の岡山で婦人帽子の講習があり、渡邊利武はその講師に招かれた。赤木氏はそこで帽子づくりの魅力に惹かれ、何度か神戸のマキシンを訪ねたという。
それから時は流れ、赤木氏は昭和38年に留学のため渡仏、その直後に知人の仲介で、偶然マキシンの材料仕入れやデザインなどの情報伝達の仕事を受けることになる。
当時のパリは材料店、アクセサリー業者、造花帽子や羽帽子専門のアトリエなど何でもあった最後の時期。現在のパリの日本人街となっているサンタンヌ通り周辺に婦人帽子関係の問屋が軒を並べ、世界中から仕入れに集まっていた。赤木氏はその界隈を熱心に歩き、気がつけば一見さんお断りのアトリエでも顔パスになるくらい街に入り込んでいった。ゆえに彼が仕入れた情報や材料は最新の中の最新であり、それを受けてマキシンは神戸で「一歩先」の商品をリリースしていった。
また、昭和31年からパリへ直接赴いていた渡邊利武が昭和42年に渡欧した際にさまざまなアトリエを訪ねることができ、得難い材料を仕入れることができたのも、赤木氏のガイドがあってこそであった。赤木氏は画業のみならず、ファッションジャーナリストとして最新のモード情報を業界誌などで日本に紹介し活躍。元神戸大丸オートクチュールデザイナーの大西節子氏がパリ滞在した際も、彼女のサポートをしたそうだ。
今なおフランスで絵筆を執っている赤木氏。彼が繊細なタッチで描くパリの街角には、マキシンのもうひとつのルーツがある。