連載小説 《神戸異人館物語》最終回

三条杜夫
絵・谷口和市

永遠の眠り

 大正五年の梅雨明けに、ハンターが愛子を誘って有馬温泉に出かけることになった。一年前の春に三田から有馬温泉まで「有馬軽便鉄道」が開通していたので、それに乗って出かけることにした。大阪の平野家にご機嫌伺いを兼ねて一泊し、大阪から三田まで国鉄で出かけ、そこから軽便鉄道に乗り換える。三田と有馬間の単線十二・二キロを一日七往復する蒸気機関車はアメリカ製のボールドウインという機関車である。客車を五両つないで、約三十分で有馬まで走る。運賃は二十九銭。
「松茸狩りで社員の皆さんを三田に招待しましたわね」
「山デスキヤキヲ食ベタネ。私ガ牛肉ヲ食ベル習慣ヲ広メタコトヲ愛子ガ話シタラ、山ノ持主ノ婦人ガビックリシテマシタネ?」
 コトコト走る汽車に揺られながらのよもやま話に、ハンターはこれまでひたすらに歩んできた道を振り返る。山並みの向こうの空に目をやるハンターとは対照的に、愛子が線路のそばに鉄柵が設けられてあるのを見つけて言う。
「あれ、何かしら?」
「アア、アレ? 猪除ケデスヨ。猪ガ鉄路ニ飛ビ出シテ汽車ノ邪魔ヲシナイヨウニシテイルノデス。牛肉ヲ食ベルヨウニナル以前ハ猪ヤ鹿ガ日本ノ貴重ナ蛋白源ダッタノダカラネ」
「猪を食べることが減ったので、猪が増えて迷惑してるのでしょうか? そう言えば、清水ホテルの今夜のお食事も名物の塩漬け肉のオードブルが出るらしいですわよ」
 清水ホテルは外国人専門のホテルであった。御所坊、兵衛、中の坊、ねぎや、奥之坊、角の坊など日本人客中心の宿とは別に、慶応三年の開港以来、外国人対象のホテルが複数誕生していた。有馬がスイスに似た環境で好印象を与え、外国人たちが喜んで避暑に訪れるのであった。鼓ケ滝から落ちる水を集めたの水を汲み上げて五右衛門風呂に入らせるのがホテルの名物となっており、外国人たちがこの極めて日本的な入浴を楽しんだ。ハンター邸ではバスルームという西洋式入浴法が日常の習慣となっているだけに、随分久し振りの五右衛門風呂はハンターにとって、キルビーと兵庫にやって来た当時、留吉の家に居候して五右衛門風呂に入った懐かしい思い出をよみがえらせてくれた。そのキルビーと死に別れてもう三十三年になる。三日間の滞在の間に、ハンターと愛子は外湯の本温泉にも入ってみた。鉄錆びた色の「金泉」につかったハンターと愛子が、ロビーで感想を述べ合う。
「含鉄強塩泉、スゴイネ、手ヌグイガ赤銅色ニ染マルホドダカラ。秀吉ノ時代カラコウシテ毎日赤茶ケタ湯ヲ噴出シ続ケテイルワケデショ?」
「温泉は地球の鼓動の産物ですよね? 大自然の営みって偉大ですわね」
「ソレニ比ベレバ、人間ノ営ミナンテホントチッポケナモノデスネ。一生懸命生キテモ、地球ノ歴史ノホンノ一瞬ノ出来事。秀吉ガ夢ノマタ夢・・・ト最期ニ残シタ言葉、温泉ニツカリナガラ改メテ思イ出シテイマシタヨ」
 本温泉から清水ホテルへの帰り道、御所坊の前を通りかかった時、ハンターと愛子を呼び止めた男がいる。主の金井啓修である。清水ホテルの主からハンター夫妻が逗留に来ていることを聞き、見せたいものがあるというのであった。御所坊の座敷に案内して金井が見せたもの、それは「高談娯心」と墨で筆書きされた書であった。
「コレハ誰ガ書キマシタカ?」
 ハンターの問いに、金井が答える。
「八年前にハルビンで無念の死を遂げられた伊藤博文さんが昔に手前共に下さったものですよ」
 伊藤博文が兵庫に住んで意欲的に行動していた時、御所坊を訪れ、興に乗るまま書き留めてくれた書だという。
「ミスター伊藤、ココニ来マシタカ?」
「はい。何日か泊まられました。庭先で牛肉を焼いて召し上がったことがありましてね、友人から教わった食べ方だと言っておられました。それがハンターさんだったわけですねぇ」
 今頃になって改めて、伊藤博文が自分のことをそんなにまで心に留めてくれていたのかと知って胸を熱くするハンターであった。ただでさえ、感激性のハンターが近ごろ、いっそう涙もろくなっていた。生きることの悲喜こもごもをここに来て何かにつけてするハンターは、無意識のうちに、自分の人生の最終章を迎える日が遠くないことを感じていたのかもしれない。

 ここで世界の状況に目を向けると、大正三年(1914年)七月に第一次世界大戦が勃発していた。ヨーロッパにおいての戦争が中心で、日本における直接的戦闘地域はなく、一般国民には戦時中であるという実感は乏しかった。しかし、戦域の拡大を懸念して一時、恐慌寸前まで陥りかける不安感の高まりもあったが、月日が経つうちに、戦火に揺れるヨーロッパに代わって、日本と米国が物資の生産供給基点となり、日本経済は空前の好景気となる。特に品不足を補う造船、繊維、製鉄業などは飛躍的に発展をとげて、浮かれ気味の日本国内のムードが続いていた。
 元来平和主義者のハンターは、この大戦そのものを悲しむ毎日であった。それは外国人として異国に生きる事実をどうぬぐいさることも出来ない宿命ともいうべきものであった。
「国ト国トガ争ウコト自体ガ間違ッテイル。同ジ地球ノ上ニ生息スル者ドウシ、何ガアロウトモ仲良ク共存共栄デ行カネバナラナイ」
 しみじみそうもらして、ため息をつくハンターであった。
 第一次世界大戦が終結を迎える大正七年を待つことなく、ハンターは自分自身の寿命の終わりを迎えるのである。
 大正六年(1917年)、愛子桜が例年にもまして見事な花を開いた。
「コノ桜、アト何回見ルコトガ出来マスカネ?」
 ハンターがぽつりともらした。
「何回も見て下さいな」
 愛子が深い意味もなく、答えた。しかし、その桜がハンターの人生にとって最後の桜だったのである。桜が散ってさつきの花が咲き、それが枯れると六月。ハンター屋敷のあちこちに紫陽花が咲き始めていた。関西が梅雨入りを迎えるには十日ほど早く、五月末から晴天が続いていた。最近、二階のバルコニーから夜明けの東雲を見るのがハンターの日課のようになっていた。
「朝焼ケモ夕焼ケモ同ジヨウニ空ガ茜色ニ染マルケド、愛子ハドッチノ茜色ガ好キデスカ?」
 たわいもない夫婦の会話のようであるが、人生の最終章を過ごしているハンターにとってはそれ自体が大きな意味を持つ大事なひとときであった。
「私は朝焼けの方が好きですわ。夕焼けはさみしいですもの」
「ソウダネ。夕焼ケハ衰エ行ク太陽、サミシイネ。朝焼ケハコレカラ新シイ一日ノ始マリ。朝焼ケガイイネ」
 そう言って目を細めて、大阪湾を赤く染めて昇り始める太陽の姿を追い求めるのが、ハンターの日課のようになっていた。近代日本の夜明けともいうべき文明開化の時代を一心不乱に生き抜いて来た一人の異国人の自らの心意気を象徴するかのような夜明けの朝日でもあった。しかし、六月一日の太陽を最期に、翌日の六月二日の太陽をハンターが見ることはなかった。まさに眠るが如く、ハンターがその生涯を閉じたのは大正六年六月二日のことである。直接の死因は心臓麻痺とされるが、ハンター自身納得のうえに堂々とその天寿の幕を引いたと、結論づけることをお許し願いたい。享年七十五歳であった。
 

 ハンターの訃報が伝わるや一番に駆け付けて来たのは神戸市長、鹿島房次郎であった。愛子が龍太郎たち子供の協力を得て、屋敷でとり行った告別式は各方面から駆け付けた弔問客でごったがえした。が、大人数が押し寄せたにもかかわらず整然と水を打ったかのような空気が満ち満ちているのは、列席の誰もがハンターの死を心から悲しむことのあらわれに他ならなかった。市長の弔辞、参列者の焼香のあと、稲次郎が龍太郎たちと用意した六頭の白い馬が引く馬車が姿を見せた。実は、稲次郎の父、留吉は何年か前にこの世を去っていた。その葬儀にはハンターが格別の心づかいをしてくれた。今日はその恩に報いる日でもある。そして、それは三十四年前、キルビーの死に際して、輿を用意して小野浜外人墓地へと遺体を運んだことの続きともいうべき稲次郎一世一代の大仕事である。馬車に棺を乗せるのはハンターの子供、龍太郎、エドワード、範三郎をはじめ孫の龍平たち。御者のたずなさばきによって一頭の白馬がいななくと、それを合図に、馬車がゆっくりと動き出す。日本人は合掌し、西洋人は両手の指を組み合わせて、祈る。馬車の動きと共に、その周囲に慟哭の渦が起こる。怒濤のように列席の人々の慟哭が続くなか、六頭立ての白馬車が粛々と坂を下って行く。六月の天までもが今にも泣き出しそうなしめった大気の中に白馬車が静かに消えて行った道——のちの世に人々はその坂をハンター坂と呼ぶ。

 残された愛子は、日本済生会、愛国婦人会など公共事業に力を貸し、ハンターの名を汚すことなく賢夫人として余生を送る。昭和十四年(1939年)、八十九歳でこの世を去る時、愛子は子供たちに遺言した。
「ハンターと同じ墓地で、ハンターの横の墓に私をほうむってほしい」
 その遺言を子供たちが叶えて、愛子は日本人でありながら外人墓地に眠ることとなった。それは、英国人でありながら日本の土になった我が夫といついつまでも一緒にいたいというけなげにも毅然とした大和撫子としての生きであった。いや、死に様と言うべきか。
 神戸の外人墓地はキルビーが死んだ時は小野浜にあったが、明治三十一年(1699年)春日野墓地に移った。ハンターが六頭立ての白馬車で運ばれたのはこの春日野外人墓地であった。愛子も自ら希望して春日野の土となるべく埋葬された。昭和三十六年(1961年)六甲山地の再度山頂近くの修法ケ原に外人墓地が移転となり、現在はハンターと愛子は再度山の上から神戸の街を見下ろして眠っている。墓標を隣り合わせることによって「我れ、いついつまでも汝と共にあり」とするハンター流を見事、永遠に示し続けるものである。ひときわ大きな墓標をハンターのために立てたのは、日立造船株式会社である。大阪鉄工所が昭和十八年(1943年)に発展的に社名を日立造船と変更した。平成十四年(2002年)に日本鋼管株式会社と「造船事業統合基本協定」を締結してユニバーサル造船株式会社に造船事業を移管、その後は造船業を離れ、環境保全、プラント、精密機械、防災等、豊かな地球環境と社会基盤づくりを事業種目とする巨大企業に成長をとげて現在に至っている。あえて、ハンターが創業した当初の「造船」というネーミングを変更することなく、日立造船が存在する現状を空の上から眺めて、さぞかし、ハンターは満足なことであろう。
 人は死して名を残す。一異国人のハンターが残した事業体が今も立派に日本経済界の雄として息づき、ひたすらに生きたハンターのその足跡をこうして今に語り継いでいる。

                     完

〈作者からのご挨拶〉
 アイルランド生まれの少年が日本に憧れ、星雲の志を立てて、この国にやって来たのがそもそもの始まり。近代日本の夜明けに一生懸命生きたハンターが数々の功績を残す結果となった。牛肉文化を植え付け、国際結婚の嚆矢となり、ビジネスの模範も示した。また、文明開化の時代に、日本の近代史に記録される複数の著名人とかかわり、その周辺はまさにドラマティックであった。ハンターの生き様を縦糸に、彼とかかわる様々な出来事を横糸に、この物語を紡いできたら、4年9ヶ月に及ぶ連載となった。連載の途中、数々の資料を提供して下さった方々、激励して下さった方々はもとより、この連載を愛読下さった皆様に心からお礼申し上げます。これまでのご支援、まことにありがとうございました。
 また、挿絵をお描き下さった谷口和市さん、連載の場を設けて下さった「月刊 神戸っ子」の皆さんにも感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

ハンターゆかりの神戸散歩

再度山
慶応三年十二月、横浜から船を乗り継いで、ハンターがキルビーと紀淡海峡から兵庫の海にやって来た時、初めて見た山。ウッデッドマウントと名付けられて、イギリスのチャートにも記されていた。この山の頂きにある修法ケ原の外人墓地にハンターの墓がある。彼が初めて目にした山に永遠の眠りにつこうとは知るよしもなかった。運命の不思議さを感じる。

海軍操練所跡
ハンターが上陸する二年前まで存在した。文久三年に将軍徳川家茂が摂津の海の防御を巡視の後を受けて、勝 海舟が海軍操練所を設けた。海兵の訓練船「咸臨丸」の燃料の石炭を高取山から掘り出そうとするなど斬新な発想であったが、幕府に反対の者まで入所させたことから廃止のやむなきに至った。

運上所
開港に向けて建てられたハイカラな建物で「ビードロの家」と人は呼んだ。キラキラ輝く硝子窓が開港の祝砲にビリビリと振るえた。現在は税関と姿形を変えて港を守る。

紺部村
生田神社の本村。四十九軒の一軒にハンターとキルビーが身を寄せた。一面の麦畑と木綿畑。その木綿を染める家があることから紺部と呼ばれるようになった。紺部がなまって「かんべ」となり、さらに「こうべ」となった。実際には現在のどこあたりの位置なのか、調査すれば興味深い。

元町浜
浜辺に数棟の酒蔵が並んで存在していた。「監喜」「柴金」「橋本」「川越」など。その一つを借りてキルビーが経営を始めた屠牛場兼牛肉販売所が日本初の牛肉ビジネスである。それまで、牛肉を食べる習慣のなかった日本に牛肉を食べる文化を植え付けたハンターとキルビーが過ごした酒蔵は今は跡形もない。どころか、元町浜そのものさえ完全に姿を消してしまっている。現在の姿は、大都会の南に横たわる港湾の岸壁である。

神戸事件勃発地
西国街道に面したうっそうとした森。そこにある三宮神社の周辺で、備前藩の行列を外人が「供割り」するという神戸事件(のちにこう呼ばれるようになった)が勃発した。のちに兵庫県知事を経て内閣総理大臣に就任する伊藤俊介(のちに博文と名を変える)が外国と折衝、備前藩を守ろうとしたが、叶わず、腹切りで結着。封建時代の最後の切腹と言われる。現在は大都会の片隅にこじんまりと存在する三宮神社が唯一、往時を物語る。

居留地
兵庫港(のちに神戸港と名を変える)誕生の後、西洋人が住み、ビジネスを行う特定の土地として形成された。ここに「ハンター商会」を構えた。今は神戸のビジネスストリートとして存在。

ハンター屋敷
北野町の三千坪を譲り受けて、広大な屋敷を構えた。その名残りの塀が今も残る。Hのイニシヤルを彫刻した丸穴を持つ塀。屋敷の南東隅に残る日本家屋が今「ハンター迎賓館」として結婚式やパーティー会場として親しまれている。

実在の人物を描く小説だけに、そのゆかりのある土地が今を息づいているのは嬉しいことである。

ハンター肖像

ハンター肖像

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三条杜夫(さんじょう・もりお)

フリーアナウンサー、放送作家。ルポライターを経て、放送業界へ。経験にもとづく地域活性化講師としての活動も評価されている。著書に「いのち結んで」、「宝の道七福神めぐり」、「そうゆう人たち」など。


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目次 2010年12月号