ボーイスカウト精神の模範になる 「三吉道」のすすめ その弐

鎖国と千石船

文 濵田 耕次
 江戸後期の一八三二(天保三)年、尾張の国の千五百石積みの「宝順丸」が遠州灘で嵐に遭い、十四カ月の漂流の後、アメリカ北西部の海岸に流れ着いた。助かったのは十四人の乗組員のうち岩吉(二十八歳)、久吉(十五歳)、音吉(十四歳)の三人だけだった。
 この三人、「三吉」は毛皮貿易のハドソン湾会社の世話によって、ロンドンを経由してマカオに送られ、この地で同じように海難で外国に流れ着いた日本人たちと共に暮らし、帰国の機会を待ちながら、国際人として成長した。
 江戸時代の日本では海運は盛んだったが、沿岸航海に限られ、ひとたび外洋に押し流されると「千石船」は漂流するほかなかった。「三吉」の漂泊の旅の背後にあった日本の海外政策をみてみよう。

 徳川家康は外国貿易船及び国内の西国大名や大商人に朱印状を与えて海外貿易を奨励し、鎖国までの三十年間にその数、三百数十通にのぼった。遠洋航海用大型船の建造にも力を入れた。ところが、西国大名が海外貿易で財力を蓄え、勢力を広げる兆しが現れ始めると、幕府は彼らから五百石以上の船を取り上げ、二代将軍秀忠はキリシタンを禁じ、三代将軍家光は鎖国令を出して特許船以外の日本船の海外渡航・帰航を禁じ、外国船の入港は長崎に限定し、ついには日本人すべての海外渡航と帰国を禁じて海外との交流を厳しく制限、政策を一転させた。
 一方で、江戸が巨大都市に成長していくと、大量の物資が必要になり、江戸―大坂、東北―日本海―下関―瀬戸内―大坂、東北―太平洋―房総―江戸の三ルートなど、海運による輸送網が整備された。
 船は弁財船という荷船で、最初は櫓と帆の両方で航行していたが、十七世紀中ごろから逆風でも前進できる帆走専用の船が千石積を目安として建造されるようになり、千石船とよばれ十八世紀中期にその形式が完成、海運の主力となった。千石積船は米百石、米俵にして二千五百俵、約一五○トンを積む。
 速度も速くなり、「三吉」の時代では大坂―江戸を六日から十二日で結んでいた。西宮の酒蔵から新酒をいかに早く江戸に送り届けるかの競争もあり、二日と十時間で江戸に届けたという「新酒番船」の記録もある。
 また、日本には十五世紀の遺明船の時代から外洋航海用の造船技術があったが、外国との交流を厳しく禁止した幕府は、船の構造をチェックして外洋に出られないように規制した。航海の技術も監視され、外洋操舵の訓練をすることは許されなかった。
 江戸―大坂間の物資輸送はますます盛んになり、尾張の国の知多半島の伊勢湾に面した小野浦(現・美浜町)は、江戸と大坂の中間にあって廻船業が盛んだった。
 「三吉」が乗り組んでいた小野浦を母港にする「宝順丸」は、当時では新鋭の和船だったが、あくまで沿岸航海のための船で、冬の遠州灘を乗り切るのは大きな危険をともなっていた。難破の背景にはこうした幕府の政策があったといえるだろう。
 さて、その犠牲になった「三吉」は、地球をほぼ一周してマカオにたどり着き、望郷の思いに駆られて故郷への帰還を試みるのだが、ここにも幕府の壁が立ちはだかった。次回は国際人「三吉」の挑戦をたどってみよう。

美浜町立河和中学校教諭・竹内英章氏作 宝順丸を模写 イラスト/濱田耕次

美浜町立河和中学校教諭・竹内英章氏作 宝順丸を模写
イラスト/濱田耕次


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目次 2010年12月号