連載小説 神戸異人館物語 

三条杜夫
絵・谷口和市

新開地、有馬温泉で晩年の輝き

  愛子の実家、平野家のルーツ、佑天上人は享保三年、八十二歳でこの世を去っているが、若い頃に自らが破戒僧であった体験から放蕩愚味の輩をいさめて、念仏を唱え、手踊りで仏の救いを得る法を編み出した。それが自安我楽踊りである。
「磐城では盂蘭盆会の時に、先祖供養の盆踊りとして今も引き継がれているそうです」
 こう言ったルーツに深い関心を寄せて、あれこれ話し合えるのは、ハンターと愛子の生活に余裕が訪れた証拠である。
「増上寺を一度訪ねてみたいですわ。その時には、浅草にも行ってみたいですわね。大変なにぎわいだそうですよ」
「福島ヤ東京ハスグニ行ケナイガ、西ノ浅草ナラスグニ行ケマスヨ。明日、行コウカ?」
 ハンターが目を輝かせる。「西の浅草」とは神戸の新開地のことである。明治三十八年に湊川の付け替え工事によって出来た河川敷跡地を埋め立てた土地に商店街が誕生していた。新しく開かれた土地ということから、新開地と呼ばれていた。翌明治三十九年には、神戸駅近くの相生町にあった芝居小屋、相生座が湊川神社の門前町から引っ越して来たのをはじめ、四十三年には映画専門の興業小屋、電気館や日本館がお目見えするなど、日を追うごとに活気を増しつつある繁華街であった。
 人力車を雇って、ハンターと愛子は新開地に行った。元々湊川は天井川で、村の田畑の上を流れ、その川の周囲はうっそうとした森林であった。明治維新以後多くの外国人が兵庫にやって来て、ここらあたりで狩猟をする風景がよく見られたものである。そんな光景がもはや嘘のように変わり果てて、目を見張るような街が誕生していた。
「ここからは歩きましょう。車屋さん、ここで待っていて下さいな」
 天井川をくり抜いて作った隧道の上の公園あたりで車夫を待たせると、ハンターと愛子は新開地の通りを南に歩き出す。芝居小屋の前には大きなのぼり旗が掲げられ、道の両側に軒を連ねる種々雑多の店先からは呼び込みの声もかかり、歩くだけで楽しい気分にひたれる不思議な街であった。
「東の浅草、西の新開地と言われるだけあって、大したにぎわいですよね」
「イツカ、ソノ浅草ニモ行コウ。増上寺ニモ」
 人混みに身を置いて、物見遊山のひとときを過ごす六十代後半の西洋人男性と五十代後半の日本人女性であった。特に、男性が西洋人でありながら日本国家から勲章を受けている特別の人物であることなど、その親しみやすい風貌からは誰も想像だに出来ないのであった。
 明治四十一年十二月二十八日、ハンターは勲五等双光旭日章を受賞していた。外務大臣小村寿太郎が内閣総理大臣桂 太郎に宛てた調査書には次のような推薦文が記されていた。
「神戸に移住して以来、各種の事業を経営し、我が国商工業の発展に貢献。明治十三年、大阪鉄工所を設立し、船舶及び機械の製造に従事し、我が国の造船事業幼稚の際、我が海運発達に資し、明治三十七、八年の役には駆逐艦二隻、艦載水雷艇三隻を建造し、その成績良好、我が海軍に効したる功績少なからず。また、明治十八年摩擦精米機械を兵庫に創設して精米業を開始し、その原料に日本米を用い、之を海外に輸出し、邦米輸出の端緒を開き、十九年、工場焼失により翌二十年、日本精米株式会社を組織し、事業を継続し、日清、北清、日露各戦役の際には多量の摩擦米を我が陸軍に供給して大いに便宜を与えたる等その功績顕著なるを以て勲五等旭日章を授くものである」
 日本国政府が外国人に勲章を授与したのである。いかにハンターが日本のために役立つ働きをしたかということである。
 やがて明治時代が終わりを告げる。明治四十五年(1912年)七月三十日午前零時四十三分、陸仁天皇崩御。直接の死因は尿毒症。御年六十一歳であった。国民は各戸ごとに日の丸の半旗を掲げて弔意を表現した。ハンターの洋館の玄関にも日の丸の半旗が掲げられた。ユニオンジャックの旗でさえ掲げるチャンスのなかった洋館に日の丸を掲げて、ハンターはポツリともらした。
「時代ガ音ヲ立テテ移ッテ行クヨウダ・・・」
 この時、ハンターは六十九歳。天皇より八歳年上の自分を改めて見つめなおすのであった。
 明治四十五年七月三十日、替わって第百二十三代天皇の座に着いたのは、明治天皇の第三皇子である明宮嘉仁であった。明宮は皇后美子との間に生まれた子ではなく、側室の柳原愛子との間に、明治十二年(1879年)八月三十一日に生まれた。生来健康に恵まれず、その気弱な性格と病弱なことから、政界の一部では山縣有朋らを中心に、「頼りない」「頭が悪い」など公然と評されるほどであった。それでも天皇の座に着いたのは、明治天皇と皇后美子の間に皇子や皇女がおらず、また、側室との間に生まれた親王や内親王ら五人も、第三皇子である明宮出生以前に相次いで死亡していたため、明宮が即位したものである。明治四十五年七月三十一日を大正元年と定めるが、その年号は中国の書物「易教」の「大亭以正天下之道也」から取って「大正」としたものである。即位の礼は三年後の大正四年(1915年)京都御所で行い、明治三十三年五月に結婚していた九条節子は貞明皇后となった。この大正天皇が事実上の一夫一妻制を貫き、後にその子の昭和天皇が一夫一妻制を明文化する。こうして大正時代が幕を開けたこの頃、大阪鉄工所はのちに三菱重工業となる長崎造船所、神戸造船所と、のちに川先重工業となる川崎造船所、それにのちに石川島播磨重工業となる石川島造船所と並んで日本四大造船所の一つに数えられる事業体に成長していた。なかでも石川島造船所は、嘉永三年(1853年)に江戸幕府が水戸藩に命じて、隅田川河口の石川島に作った造船所で、いわば組織力を以て誕生させた造船所であるのに比べ、大阪鉄工所は西洋人のハンターが個人の力で経営を行い、発展させてきた点に特色がある。ハンターの跡を引き受けた龍太郎がよく経営の舵を取り、大正三年(1914年)三月には株式会社大阪鉄工所に改組した。
 ハンターにとってこの春は格別の感があった。藤田庄屋から譲り受けた三千坪の敷地に今では広大な西洋風の塀を張り巡らせて、その要所要所に丸い穴をくり抜き、ハンターのイニシアルであるHという英語を鉄で作ってはめ込んでいたが、これは日本の家紋に該当するハンター流のプライドの表現であった。その塀の東南隅に近い所に愛子桜が順調に成長していて、毎年、花を咲かせて楽しませてくれていたが、この春はとりわけ見事な花を開かせた。
「大阪鉄工所ノ法人化ヲ、愛子桜モ祝福シテクレテイルンダネ」
 一働き終えて、第一線をとっくに退いた身であってもやはり自分が作った企業はかわいい。桜もかわいい。もっとかわいいのは桜の名前のもととなっている我妻、愛子である。そして事業を継承している嗣子、龍太郎である。愛子が桜を見上げて顔をほころばせる。
「十年以上経てば、こんなに立派に花咲かせるのですねえ」
 この二年後の大正五年には、龍太郎が大阪商船系列の大阪海上保険株式会社の社長に就任する。この保険制度の誕生に関しては、ハンター父子の働きかけが実を結んだ。イギリスで盛んに行われている怪我の保険を日本にも採り入れてはどうかとハンターが提案した。交通や工場経営の安全のためにこれからの日本には保険制度が必要だとハンターがアドバイスした結果、明治四十四年、日本に傷害保険が誕生したのであった。ハンターが熱心に保険制度のアドバイスを行った陰には、明治四十二年十月二十六日にかつてのハンターの友人、伊藤博文が暗殺された事件の勃発があった。満州・朝鮮問題についてロシア蔵相と会談するために、日本枢密院議長の肩書きでハルビンを訪問していた伊藤が銃弾三発をくらって異国の地で絶命した事件である。このニュースを耳にしてハンターは涙した。キルビーの自殺にも劣らぬ衝撃的な出来事であった。こういう不幸な出来事に備えるためにも、保険制度が必要であるとハンターは実感したのであった。ここに来て、のちに住友海上火災保険株式会社に成長する大阪保険株式会社のトップに我が息子が就任した姿を見て、ハンターは大いに満足であった。
 大正五年の梅雨も明けようとするある日、ハンターが愛子に言った。
「ドウダロウ? 一度、有馬温泉ニ行ッテミナイカイ?」
 有馬温泉ははるかな昔に大国主命が発見したとされ、東の草津温泉と並んで我が国最古の温泉と評価される名泉である。豊臣秀吉が三木城の攻略に当たって傷ついた兵士を湯治させ、自分自身も湯の山街道を通って合計九回訪れたと言われる温泉である。六甲山の北懐に抱かれた温泉郷は、明治の幕開け以後、外国人たちの避暑地としても人気を博していた。住吉から有馬まで魚介類を運ぶ「魚屋道」を通って、山越えで行くのがこれまでの常套手段(じょうとうしゅだん)であったが、大正四年四月に三田から有馬温泉まで「有馬軽便鉄道」が開通していたので、それに乗って出かけようとハンターは愛子を誘った。     つづく

次号でこの小説は完結します。
長らくのご愛読ありがとうございました。

ハンター肖像

ハンター肖像

20101110501

20101110502

三条杜夫(さんじょう・もりお)

フリーアナウンサー、放送作家。ルポライターを経て、放送業界へ。経験にもとづく地域活性化講師としての活動も評価されている。著書に「いのち結んで」、「宝の道七福神めぐり」、「そうゆう人たち」など。


ページのトップへ

目次 2010年11月号