ボーイスカウト精神の模範になる 「三吉道」のすすめ その壱

「三吉」の漂泊の始まり

文 濵田 耕次

 

日本ボーイスカウト兵庫連盟は一九八九年に、兵庫県とワシントン州との姉妹提携二十五周年とワシントン州建州百年を祝う事業として、米国ワシントン州バンクーバー市の国立史蹟公園に「三吉史実顕彰碑」を建てた。

 御影石に、ちょんまげ姿の三人の若者のレリーフが彫られ、「友好親善」の文字と日本ボーイスカウト兵庫連盟長貝原俊民(日本国兵庫県知事)の名前が刻まれている。兵庫連盟は時に応じ、現職知事に連盟長をお願いしている。ご相談すると、貝原さんは「三吉の史実はワシントン州に深くかかわり、ボーイスカウト精神の模範になる」と顕彰碑の建立に快く了承して下さった。
 その精神とはどのようなものなのか。三人の波乱万丈の物語を紹介して、勇敢・誠実・友情を培い、社会に奉仕する「三吉道」を知っていただこうと思っている。
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 一八三二(天保三)年十一月、尾張の国の水夫十四人が乗り組んだ千五百石積みの「宝順丸」は鳥羽から江戸に向かう途中、遠州灘で遭難し、十四カ月の漂流の後、米国西北部のケープ・アラバに流れ着いた。生き残ったのは岩吉(二十八歳)、久吉(十五歳)、音吉(十四歳)の三人だけだった。アメリカ大陸の地を踏んだ最初の日本人とされる。現在、この地は太平洋岸の国立公園で、その北端にマカー族インディアン自治区がある。日本ボーイスカウト兵庫連盟は、三吉救助のお礼として二〇〇六年に、「宝順丸」の模型をマカー博物館に贈った。
 マカー族に助けられた「三吉」は毛皮交易のハドソン湾会社に引き取られ、会社の本部があるコロンビア河畔のフォート・バンクーバーに移された。三人はここで温かく迎えられ、半年余り学校に通って英語を学び、国際感覚を身に付けた。
 ハドソン湾会社はその後小売業として発展し、現存する北米大陸最古の企業として知られるが、本部があった場所はいま「三吉史実顕彰碑」を建てた国立史蹟公園になっている。
 「三吉」を引き受けたハドソン湾会社のフォート・バンクーバーの責任者のジョン・マクラフリンは三人を日本に送還することによって日本との開国交渉を進めることができるだろうと考え、「三吉」を本社のあるロンドンへ送った。しかし本社の重役たちは直接送還する方法をとらず、マカオに送ってそこから日本に送還する機会を待つことにした。
 遭難してから三年後、「三吉」は地球の反対側をぐるりと回ってマカオに着いた。三人の身柄はイギリス政府の出先機関に委ねられ、中国語の通訳もしているドイツ人宣教師カール・ギュッツラフの世話になった。
 ギュッツラフは日本にキリスト教を広める準備のために「三吉」に聖書の日本語訳を頼んだ。「三吉」は一年かけて「ヨハネ伝」と「ヨハネの手紙」の翻訳に協力し、印刷も出来上がった。
 三人はマカオで暮らしている間に、東シナ海で遭難してフィリピンのルソン島に漂着し、マカオに送られてきた肥後の国の船乗りの庄蔵ら四人に会った。二組の漂民七人は故国に帰る願いを持ち続け、一方では異国で生きる道を探すことになった。
 江戸時代では海難はしばしば起こった。なぜそれを防ぐ造船・航海の技術が進歩しなかったのか、それを次号で考えてみたい。

フォート・バンクーバー国立史蹟公園 イラスト/濵田耕次

フォート・バンクーバー国立史蹟公園 イラスト/濵田耕次


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目次 2010年11月号