
阪神間文化は今
阪神間レトロ・モダン物語
河内 厚郎さん 評論家・夙川学院短期大学教授
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辰馬 朱滿子さん 白鷹株式会社取締役副社長・白鷹禄水苑総合プロデューサー
阪神間を舞台にした小説は古典からライトノベルまで
―阪神間を舞台にした小説といえば『細雪』ですが、他にもたくさんあるのですか。
河内 井上靖の小説が欠かせないと思います。中年以降の歴史小説は学校の教科書などで取り上げられていますが、前半期は『猟銃』『闘牛』『射程』『あした来る人』など、阪神間の市民風土を描いた作品も多いんです。大阪の毎日新聞の学芸部にいて香櫨園に住んでいた時期もありました。本人が述懐しているように、実業家を小説に登場させるときには阪神間の設定にしていたようです。
谷崎潤一郎の『細雪』が1930年代、井上靖が1950年代、1970年代のブルジョアを扱っているのが小川洋子さんの『ミーナの行進』です。舞台は芦屋の山の手。カバに乗って学校に通うなど、あり得ない設定もありますが、実際に屋敷の中に私設動物園を造っていた人がいて、それをモデルにして書かれています。村上春樹さんの初期の作品も、地名はズバリ書かれていませんが、我々にはすぐ分かりますね。
ライトノベルで話題沸騰は、谷川流さんの『涼宮ハルヒの憂鬱』です。アニメで全く同じように描かれている西宮北高に観光客が毎日のように来ています。野坂昭如さんの『火垂るの墓』がアニメになった時は夙川が舞台で、香櫨園あたりがリアルに描かれているので感動しました。また、有川浩さんの小説『阪急電車』が東宝で映画化されます。こうして挙げていくだけでも、阪神間を舞台にした小説は、近代の古典からライトノベルまでたくさんあります。
―辰馬さんは三姉妹でお嬢様育ち。さしずめ『細雪』のイメージですね。
辰馬 私どもはあんなに優雅な生活を送っていませんよ。『細雪』は船場の商家で住まいが離れていたので実際にああいう華やかな生活をしていたかもしれませんね。私の祖母がほぼ同時代ですが想像もつかないです。毎日、吉兆や播半など有名料亭で食事をしたり、贅沢な着物、履物、芝居見物…、フィクションとしては興味深くておもしろいものですが、私の生活からはかけ離れたものです。
子供の頃、家族で外食したり、旅行をしたような記憶もないですし、特に衣食については厳しく、父は常々「そんな贅沢なことをしたら先祖さまのバチが当たる」と言っていました。三人とも小中高一環教育の学校へ何不自由なく通わせてもらって、世間知らずのお嬢様育ちと言われてしまえば確かにそうですが、重なるということはないですね。
河内 『細雪』に描かれている船場商人は、大阪では奉公人の手前があり、ぜいたくはしませんでした。職住乖離で住居を阪神間に移した時にすごい解放感があり、大阪ではできない遊びをやったのでしょうね。辰馬さんの場合は地場産業ですから、生活は蒔岡家の船場でのもの。むやみな贅沢は見せてはいけなかったのでしょう。
辰馬 そうですね。昔の造り酒屋は今と違って職住近接。住んでいる敷地内にお酒を造っている蔵があり、蔵人さんはじめ全て従業員が一緒に居たというのは確かです。
教育熱心な気風が造った恵まれた学びの環境
―「学ぶ」と「住む」環境が整っている阪神間ですが、お二人の学びは?
河内 私が学んだ甲陽学院は教師の質が高いということを社会に出て初めて知りました。退職されてから博物館の館長や大学教授になっている先生がたくさんいますし、画家の須田剋太が美術の先生だったり、村上春樹さんのお父様である村上千秋先生は、国語の先生でした。中学1年から論文試験のようなものを書かされて、最初は戸惑いました。
私にとって良かったのは、高校受験がないので、中1・中2を何とか乗り切り、中3になれば、解放感があったことです。ポピュラー音楽やラジオの深夜番組にめざめる頃で、レコードを集めたり、コンサートに行ったり、それなりに大人びた雰囲気を味わえました。
辰馬 小林聖心があるのは町名を「塔の町」といい、阪急小林駅から坂道を登って行くと丘の上に聖心のチャペルがあり、別世界のようです。この恵まれた環境で小中高一環教育で12年間、のんびりした学生生活でした。中高一緒の運動会は、学年によって色分けされ、卒業後も「何色だった?」と聞けば学年が分かります。中一と高三は大人と子どもほど違い、当時は随分お姉さまと感じたものです。人数が少ないこともあり、上級生、下級生が密接で家庭的。服装、髪型、風紀など校則はかなり厳しく、制服をアレンジしたり、自由な髪型をしている学校を羨ましいと思ったりしましたが、今では小林聖心の生徒を見ると清々しく感じます。キリスト教的な知識が身についたのも役立っています。
河内 私が学生のころは、小林聖心の生徒は電車でも座らない、男子に声をかけられても返事をしないといわれていました。戦前は西宮北口駅から小林聖心の生徒専用の電車が出ていて、今津線のホームで女中さんがお弁当を渡す風景が有名だったそうです。
辰馬 戦前のことはよく分かりませんが(笑)、沿線には関学や仁川学院などあっても、男子と話すなど考えられないことでした。
―阪神間が教育熱心になったのは造り酒屋さんの力が大きいのでしょうか。
河内 酒屋さんは戦前、公立学校をあまり信用せず自分たちでやるという気風はあったようですね。資産家が芝居など芸能に手を出すと身代を潰しますが、教育なら大丈夫ですから、学校や美術館を運営する家が多いようです。甲陽学院はもとより、灘中や報徳も、もとは造り酒屋がオーナーです。
―「白鷹禄水苑」は昔の商家を再現し、生活用品も展示しています。辰馬さん自身にとっても思い出の住まいですか。
辰馬 禄水苑は初代が明治20年代に建てたものですが、戦災で焼け、見取り図や写真などをもとに再現しました。私が生まれた家も戦前の家で、同じような造りでしたのでイメージができます。玄関を入ると天井が高い土間空間があり、お勝手を抜けて裏口に出る。上がりかまちがあり、お座敷がありました。道具類については、私自身は使っていないので、展示するにあたって資料などを調べてイメージしました。
蔵の中にあった道具一つひとつが驚くほど保存状態が良く、全て保護材できちんと養生されて箱に入れられおり、何世代、何十年も手入れして大切に使っていたことが感じ取れました。道具はシンプルで質素ながら、造りはしっかりしています。関西の商家は堅実で、実用性本位のものを大切に使っていたのでしょう。小学生などが見学に来た際には、今の使い捨てとは違う、昔の人たちの暮らしぶりを説明しています。
酒造家が先頭に立って選らんだ文化都市への道
―酒造りと阪神間の地域文化は密接な関係だったのでしょうね。
河内 インフラ整備も酒造家が進め、西宮は日本でも群を抜いて道路の舗装が進んだ町でした。住宅街だけでなく田畑が残るところまで舗装されているので転勤族がびっくりしたほどです。行政に頼らず、辰馬さんはじめ酒造家からの寄付で賄った部分が多いのです。酒造家は町そのものを造り、学校をはじめ文化施設を造りました。
昭和30年代、西宮市に石油コンビナート建設の計画があり、酒屋さんたちが中心になって大反対しました。専門家を動因して本格的な反対運動を展開し、辰馬市長が実現しました。そして二度とこんなことがないようにと、文教都市宣言に踏み切ったのです。高度成長初期に間一髪、西宮は文化都市の道を選んだのです。
―宮水ホールや文化アカデミーで辰馬さんも地域の文化振興に一役かっていますね。
辰馬 かつての造り酒屋は、常に地域文化の応援者としての役割を担ってきました。時代は変わりましたが、この白鷹禄水苑を通してこうした役割を今に受け継ぐことを目指しています。阪神間には文化施設や大きなホールがたくさんありますが、ここでしかできない地域密着型の文化講座や催事を定期的に開催しています。中でも力を入れているのは伝統芸能の催事です。ここ西宮は酒の町であると同時に、古くから芸能にもゆかりの深い町です。また文楽人形遣いの人間国宝、吉田文雀丈をはじめとする多くの素晴らしい芸能者が住んでいる町でもあります。こうしたことを地域の方々に認識していただくためにも、文雀丈をはじめ、地元在住の芸能者を中心とした文楽や能の会を毎年開催しています。来年10年目になりますが、多くの方々にお力添えいただき、そのご縁でなんとか形になってきたと思っています。
―西宮には兵庫県立芸術文化センターが誕生しました。順調ですか。
河内 初代の芸術監督を務めた山崎正和さんが「この地域には質の高い消費者がいるから、良いものを造れば人が入るはず」と考えましたが、その通りでした。公共ホールは3~4年目あたりから失速する例が多いのですが、阪急神戸線沿線のお客さんが多かったフェスティバルホールの閉館という偶然も重なり、好調です。
それまで西宮北口という街をうまく使いこなせず、乗り換え駅で終わっていましたが、幾分女性寄りにターゲットを置き、本格的に文化に投資したら人が集まりました。お客さんも、古典芸能ファンとクラシック音楽ファンがダブっているということは、この場所がお客さんを惹きつけているのでしょう。
相乗効果で発展した灘の酒と阪神間の食文化
―灘の酒と食文化はどのように関わってきたのでしょうか。
辰馬 日本酒は非常に許容範囲が広く、懐の深いお酒です。ライフスタイルの変化に十分対応できます。日本酒には和食と思っている方が多いのですが、和洋問わずいろいろなお料理と合います。特に灘の酒は、味がしっかりして、飲みごたえがある。味にメリハリがありキレが良く、やや辛口。かなりボリューム感のあるお料理でも合い、淡白なお料理なら味を補佐します。
阪神間は山海の幸に恵まれ豊かな食文化が形成されてきました。ハイカラな中華料理や洋食もいち早く取り入れてきましたが、昔からすべてワインを合わせていたとは考えにくいですね。あくまでも私の想像ですが、日常的に、洋食と日本酒というような合わせ方もしていたのではないでしょうか。かつての豊かな食文化を灘の酒がいっそう引き立て、支えてきたと私は信じたいと思います。食文化と灘の酒は相乗効果で発展してきたといえます。
河内 例えば白鹿さんが日本酒のボンボンを売っていますが、阪神間は和洋折衷を自然に作ってきた土地柄です。ボーリズの建築も不思議と日本的で、赤い屋根が松林によく合います。
辰馬 世間の嗜好は移り変わります。日本酒も甘口が好まれたり、辛口が好まれたり、淡麗嗜好に偏ったり。今は飲みごたえがある日本酒に目が向いてきています。女性の好みに合わせて飲みやすくてアルコール度数が低いお酒も流行りましが、付き合いで飲むというシチュエーションが少なく、お料理と一緒にお酒を楽しむ女性は、ほど良く飲みごたえがあるお酒を選ぶと私は思っています。本来、日本酒は味で勝負。のど越しや極端な香りで勝負するものではないんです。
グレードの高い観光文化都市を目指そう
―今後、阪神間の魅力を発信するにはどのような手法や仕掛けが必要でしょうか。
河内 阪神間は、ホールの棲み分けが進んできました。宝塚ベガホールは日本最初の室内楽専用ホール、アルカイックホールはオペラができる公立ホール、ピッコロシアターは新劇、伊丹アイホールは小劇場演劇、伊丹アイフォニックホールは民族音楽…など。もはや多目的ホールの時代ではなくなりました。阪神間には美術館も多く、地域全体で棲み分けができています。文化施設の集積に厚みが出てきました。編集能力と総合プロデュース能力をうまく発揮する時期がきたと思います。
辰馬 各社アプローチの仕方は違いますが、同じ意識を持って協力しながらこの地から日本酒の魅力を発信しようとしています。日本酒離れや震災もあり、かつてのスタンスでは難しくなってきました。灘のお酒をあまり飲まなくなってしまった地元の皆さんにまず知っていただき、そこから各地へ発信していくことです。
―意欲的に取り組んでいることはありますか。
辰馬 お酒の中で唯一、季節感を楽しめるのが日本酒です。しぼりたて新酒のころの瑞々しさが、ひと夏越して熟成し、秋口になると違う味わいになります。歳時記に合わせて季節を楽しむ飲み方、また季節を楽しむ日本人の生活そのものを提案したいと思っています。
河内 かつて、住宅都市は観光都市になることを嫌いました。しかし、文化的環境を守るためにはグレードの高い観光都市になるのが得策です。文化観光都市に向けて脱皮する時がきています。大切なのは、何人お客さんが来たかではなく、その後にどういう付加価値を残すことができるかです。
今のところまだ、来る人が〝点〟か〝線〟で、〝面〟まで至っていません。酒蔵ループバスなどを恒常化し、できたら山の手まで回るようにするなど、新たな方法をいろいろと企画中です。
―今後も地元・阪神間のために更に頑張っていただきたいです。ありがとうございました。
司会・進行 本誌 森岡一孝

蔵元の暮らしぶりを再現(白鷹禄水苑「暮らしの展示室」)

かつての蔵元の住居をイメージ再現した「白鷹禄水苑」。
ショップやミュージアムで酒文化を発信

酒造り道具や資料を展示
(白鷹禄水苑「白鷹集古館」)
かわうち あつろう
一九五二年西宮市うまれ。「関西文学」編集長を二期つとめる。兵庫県立芸術文化センター特別参与。阪急学園池田文庫理事。逸翁美術館理事。著書に「私の風姿花伝」、編集に「手塚治虫のふるさと・宝塚」など。時事通信の書評を担当。「関西・歌舞伎を愛する会」代表世話人。西宮市大学交流センターで阪神文化論を教える。
たつうますみこ
灘の清酒「白鷹」の蔵元四代、辰馬寛男の長女で、西宮生まれ。聖心女子大学美術史学科卒。父が平成13年に「灘酒文化の発信地」として私財を投じて設立した「白鷹禄水苑」の構想から参画、その文化施設としての運営に携わる。一方、国指定重要文化財23点を含む辰馬家歴代当主の蒐集品を収蔵する(財)辰馬考古資料館の企画・運営にもあたり、同館の理事長もつとめる。