
連載小説55 神戸異人館物語 夜明けのハンター
三条杜夫
絵・谷口和市
平野家のルーツ・佑天上人
洋館が上棟式を迎えたのは明治四十年五月のことであった。大黒柱に掲げる飾り扇の付いた棟札に棟梁が墨黒々と書き留めた。「上棟式 範多氏明治四十年五月吉日 芝嶋吉建」木造煉瓦造り、塔屋付二階建て。一階七九・七九四坪(二四二・七七六平方メートル)、二階八四・一七七坪(二六五・0五六平方メートル)、三階(塔屋)二・七三0坪(六・九三三平方メートル)。屋根は石綿スレート葺き、寄棟造り。小屋組は洋式、基礎は石造り、外壁はモルタル櫛目引き。ハンターと龍太郎があえて元の建築から設計を変更したのは、バルコニー部分である。工事現場を見ながら、ハンターがハンセルにポツリともらした言葉をハンセルが聞き逃がさなかった。
「コノ家、見セテヤリタイ人ガイルンデスヨ」
「誰デスカ?」
「今カラチョウド四十年前、横浜カラコノ兵庫ニ一緒ニヤッテ来タ人デス」
「竣工オ祝イパーティーヲ開キマショ。ソノ人招待シマショ」
「・・・・・」
「遠クニ住ンデマスカ?」
不思議そうに尋ねるハンセルに、愛子が代わって静かに口をはさむ。
「遠いです。遠過ぎますわ・・・」
天国に行ってしまったキルビーのことである。こうして二軒目の家を持てる身分になれたのも、すべてはキルビーのお陰である、とハンターは原点を忘れない。この家に自分が住むことの喜びよりも、ここまで自分を成長させてくれた恩人に感謝を伝えたいハンターである。二十四年前にはからずもピストル自殺してしまったキルビーのことが昨日の出来事のように脳裏に浮かぶ。そんな男の気持ちを汲み取ったハンセルが設計変更して、バルコニーをやめて、南側正面を全面のガラス張りとした。それは、あの兵庫開港の日、キルビーと共に見た運上所、ビードロの家のウインドウ、祝砲の轟きに揺れて輝くギヤマンを再現したものであった。
くすんだ緑色に幾何学的な白い窓枠が印象的で、一面に張りめぐらされたガラスが映えるこの建物を目にするだけで癒され、しかも英気をもらえるような、そんな気分にしてくれる見事な洋館に仕上がった。
ここでハンターは愛子と共に日本家屋からこの洋館に移り、悠々自適の生活を送る。その歳月は十年間である。あえて、結末を先に書かせていただくなら、ハンターが七十五歳でこの世を去った後、この館に龍太郎と高子、そしてその子龍平、貞子が住む。さらに、龍太郎の嗣子、龍平が祖父・ハンターの跡を継いでハンター商会の経営にたずさわる。昭和の時代に進んで、満州事変に続く支那事変、さらに第二次世界大戦など、社会の大変動が起こり、戦後には財産税の賦課も災いして、龍平は遂にこの邸宅を手放して東京へ移って行く。その後、所有者が楊、岡本義隆と変わり、昭和二十七年からは吉田千代野が経営する料理旅館「藤月荘」となるが、同三十六年、吉田の廃業で土地建物が処分される運命となった。そこでこの異人館の保存運動が起こり、兵庫県や神戸市の応援を得て、昭和三十八年九月、王子公園北東隅に移築され、国指定の重要文化財として大切に保存されることとなる。三度に渡る建築という数奇な運命を背負ったこの家は、現存する神戸の異人館の中で最も豪華華麗の「旧ハンター邸」として燦然とその輝きを放ち続けて現在に至る。
明治四十年に豪華な洋館が完成するのを待ってハンターは故国・英国から家具調度品を取り寄せ、子供のころ過ごした懐かしい英国をしのびながら、ゆったりとした日々を過ごすようになった。穏やかな歳月が静かに流れて行く。高い天井からシャンデリアが柔らかい光を投げかける食堂で、メイドが作る夕食を愛子と共に、色々なことを話し合いながらナイフとフォークを進めるハンターであった。愛子は神戸保育院の託児事業を応援するなど社会奉仕活動に忙しい毎日にもかかわらず、時には自ら手作りの料理でハンターを喜ばせた。
壁面のステンドグラスに映える日差しの影が弱くなると、北野に冬が訪れる。大理石のマントルピースの奥でチロチロと燃える薪の炎を見ながら、ベンチスタイルのソファに並んで、愛子とよもやま話にふけるのがハンターの楽しみであった。
「子供ノ頃、ファーザートマザーガマントルピースノ前デ同ジ火ヲ見詰メテ話シ合ッテル横デ過ゴスノガ好キダッタ。私ハフロアニ世界地図ヲ広ゲテ夢ヲ膨ラマセタモノダ。ユニオンジャックノフラッグヲナビカセテ、七ツノ海ヲ支配シタ大英帝国・・・ソノスピリッツヲ自分自身デ確カメタイト子供ナガラニ思ッタモノダ。ジパング、ゴールデンカントリー・・・ソノ響キガ私ヲ虜ニシタ」
スコッチの入ったグラス片手に静かに語るハンターの横顔が幸せに満ちている。琥珀色のグラスの向こうに、ハンターは半世紀前の母国を思い描いて、ウイスキーの酔いと共に胸を熱くする。
「で、この日本という黄金の国はあなたの想像通りでしたか?」
「黄金ハ見ツケルコト出来ナカッタケド、私、女神ニ巡リ会イマシタ」
と、横に座っている愛子のおでこを人差し指でチョコンと押す。
「女神、日本流ニ言エバ、観音様。ドオリデ愛子ノルーツハ偉イオ坊様ダモノネ」
飽きることなく、愛子の出所、平野家のそもそもの発祥にかかわる話に興味を示すハンターである。
「平野家ノルーツノ祐天上人ネ、勘当サレナガラモ、奈良ヤ鎌倉ノ大仏ノ修理ニ力ヲ貸シタノデショ? 後々マデコウシテ語リ継ガレル働キヲシタノダカラ、破戒僧カラ成長シテ、ホントニ偉イオ人ニナッタト私ハ思イマスヨ」
愛子から何度となく聞かせてもらっている平野家発祥の物語に、今夜もまた、新たな興味を抱くハンターであった。
平野家のそもそもの出所は、奥州岩城郡新田村(福島磐城上仁井田村)と言われている。寛永十四年(1657年)四月八日、新妻小左衛門の子として生まれた三之助が先祖に当たると愛子は父や母から聞かされて大きくなった。三之助が九歳になった時、江戸の芝増上寺に預けられ、檀通上人の弟子となって祐典の名をもらった。ところが、この三之助、仏の修行を積む身となっても、奔放な気性が増す一方で、十四歳の時、勘当されて寺を出る羽目におちいる。佑典は檀家の娘と許されぬ仲になり、もうけてはならぬ子を産ませてしまったのである。その子の子孫が平野家であると語り継がれているのである。さて、佑典の起こした不謹慎なことには目をつぶってもらって、寺に戻った祐典は名を祐天と改めて、修行に励む。
「五代将軍綱吉やその生母の桂昌院にも取り立ててもらい、増上寺の三十六世にもなったんですよ」
「登リ詰メタ自分ハイイ。シカシ、佑天ト引キ離サレテ女手一ツデ子ヲ育テタ村ノ娘ハ佑天以上ニ偉イト私ハ思ウ」
ハンターの目の付けどころはいかにも人間的である。そのやさしさが彼ならではの人間的魅力の一つになっているのであった。
「そうですわね。女手一つで子を成長させ、その子が子孫を残したからこそ、平野家が現代まで存在するのですものね」
しみじみと思いを今更ながらに噛みしめる愛子である。村娘が独力で育てた佑天の子の何代か後の一人が、大阪で薬問屋を営んだ。つまり、愛子の父、平野常助である。
「佑天サンハ一人ノ女性ヲ不幸ニシタカモ分カラナイ一方デ、仏ノ道ニ戻ツテ死にモノ狂イデ頑張ッタ。私ガ評価スルノハ、寺ノ僧ヲ組織シテ火消シ組ヲ作ッタコトデス」
火事がよく起こる江戸でいざという時に備えて寺を守ろうと、僧侶多数に呼びかけて、今にいう自主消防団を組織したのである。佑天が采配を振るう寺の火消し組みの存在ぶりが町奉行大岡越前守の目にとまり、これを見習って江戸名物いろは四十八組の火消し組が誕生する。
「私自身兵庫精米所ヲ火事デ焼カレタノデ、佑天ノヤッタコトガドレダケ立派ナコトカ、ヨク分カリマス」
「でも、焼かれてもすぐに立ち直ったあなたは偉いですわ」
素直に夫を誉める愛子もまた良妻賢母である。
「佑天上人は晩年になって増上寺を出て隠居し、目黒で亡くなりました。その場所が佑天寺となって残っているそうです。いつか、佑天寺や増上寺を訪れたいですわ」
「私モ行ッテミタイ。愛子ノルーツヲコノ目デ見タイ。福島ノ磐城ニモ行ッテ見タイデス。ホラ、佑天上人ガ広メタ念仏踊リ、何ト言イマシタカネ」
「自安我楽踊り? 鉦や小太鼓の伴奏で念仏を唱えながら踊れば救われるというものらしいです。一度見てみたいですわ」
享保三年、八十二歳で佑天上人はこの世を去っているが、若い頃に自らが破戒僧であっただけに愚味の輩をいさめて、念仏を唱え、手踊りで仏の救いを得る法を編み出した。それが自安我楽踊りである。
つづく

ハンター肖像
三条杜夫(さんじょう・もりお)
フリーアナウンサー、放送作家。ルポライターを経て、放送業界へ。経験にもとづく地域活性化講師としての活動も評価されている。著書に「いのち結んで」、「宝の道七福神めぐり」、「そうゆう人たち」など。