連載エッセー/コーヒーカップの耳 96

出石アカル
題字 ・ 六車明峰

 

開店当初からのお客さまに、宮崎修二朗さんという人がある。知る人ぞ知る兵庫県文苑のご長老だ。現在88歳。

 その昔、日本民俗学の開祖ともいうべき柳田國男を直接取材しておられる。宮翁さん(わたしは宮崎修二朗氏のことをこう書く)、三十そこそこでこの仕事に抜擢された若き新聞記者時代の話である。
 その時の成果が、柳田研究には欠かせない名著『故郷七十年』(のじぎく文庫)というわけだ。
 因みに柳田國男の名を一般に知らしめた『遠野物語』は今年が出版百年である。
 そんな凄い人が「輪」を可愛がって下さる。光栄なことである。
 自ら光頭無毛とおっしゃる頭をオシャレなバンダナで包んで「こんちわあ」とやって来られる。
 カウンター席に座って先ず、「気つけを一杯」
 で、店のメニューにはないが、ウィスキーの水割りをお出しする。
 「ああ、これで頭がスッキリした」と言って、
 「ところで出石さん、こんな話を知っておられますか?」とおもむろにわたしの知らない文学の話が始まる。
 この人から聞く話には貴重なものが多い。うっかり聞き流していると、後から、えっ?そんな話!と思うことが度々だ。

 「この北山冬一郎という詩人は、最後は神戸で亡くなってますねえ。本名はフジタケンイチといいましたか」
 この話も驚きだった。
 北山冬一郎は今ではほとんどだれも知らない詩人だが、戦後すぐに『祝婚歌』という詩集を出し、その中の「ひぐらし」「紫陽花」などに團伊玖磨が曲をつけ、その歌曲は今も各地のコンサートで歌われている。
 ところが、である。この歌を歌っている歌手も、北山冬一郎が何者なのかについては恐らく御存じではない。
 ということで、宮翁さんの記憶の話は貴重なのである。
 大阪の国際新聞におられたころの話である。
 「あの頃は、紙が大変貴重な時代でした。お米と同レベルといってもよかった。ところがGHQが戦後日本のデモクラシー普及に力を貸してですね、紙の統制の一部を新聞に限って緩めたんです。それで、「新大阪」「新日本新聞」「大阪タイムス」などの新興夕刊紙が林立しました。これに便乗して多くの新聞社が、新聞を発行するよりも用紙を横流しして儲けたということがありました」
 で、北山冬一郎の話であるが、
 「ぼく、そのころよく出入りしていた出版社がありましてね、当時はエログロ中心のカストリ雑誌が多かったですが、そこは程度の低い文芸ものを中心にした読み物雑誌で、そこに小川という編集長がいました。ある時、そこに現れた男を彼が『あれが北山冬一郎です』と教えてくれてびっくりしましてねえ。前歯の抜けた風采の上がらぬ男でしたよ」
 これが宮翁さんと北山冬一郎との最初の出会いである。
 「彼の詩集『祝婚歌』をぼくは知ってたんです。終戦直後です。阪急百貨店の書籍部にね、きれいな表紙の詩集が飾ってあるのを見てびっくりしましたよ。赤い大きな字で“祝婚歌”と書いてあってね、目にとまりました。名前が“北山冬一郎”ってんでしょ。出版社が“新風社”ていうんです。終戦直後のあの時代にそれは新鮮でしたよ」
 わたしは、その話を聞いてこの詩集『祝婚歌』を後日、ネットで入手した。思いのほか安価だったが今、急騰している。しかし、翁のおっしゃるような大きな赤い字ではなく、白い表紙に朱色に近い赤でどちらかというと控えめな文字である。これは翁の記憶違いではないかと思った。が、そうではなかった。
 わたしが入手したのは、初版本である。そして、推測するに、翁が阪急で目にしたのは改訂版だったのだ。というのも、初版五千部はすぐに売り切れて、三か月後には改訂版が出ている。それは表紙いっぱいに“祝婚歌”と大きく赤で横書きに印刷されているのだ。比してわたしの初版本は真ん中に縦書きで上品に祝婚歌と刷られている。イメージはまったく違う。
 初版本の奥付には昭和二十一年一月十五日印刷、二十日発行となっている。
 第一刷五〇〇〇部。定價拾円(税共)。
 これはどう解釈したらいいのだろう。
 昭和二一年一月、終戦直後である。世は詩集どころではなかったのではないか。紙も大いに貴重だった時代だ。それだけ国民は文化に飢えていたのか。
 しかし五〇〇〇部をいきなり初版で発行している。一部拾円である。この時代の拾円は価値が有ったと思われる。それがわずか三か月後の四月二十日には改訂版が出ている。
 北山冬一郎はちょっとしたお金を手にしたと思われる。そこで翁の話である。
 「彼はねえ、羽振りのいい時と落ちぶれての落差の大きな男でね」
(つづく)

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出石アカル(いずし・あかる)

一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。喫茶店《輪》のマスター。


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目次 2010年10月号