[海船港(ウミ フネ ミナト)]南極の歴史と人間の関わり

文・写真 上川庄二郎   題 字 奥村孝

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【有史前から大航海時代まで】

 南極の歴史は、有史以前のこととしては、前号で述べたようにゴンドワナ大陸の移動によって今日の南極大陸が出来上がったことに始まるが、人間との関わりからみると、それは探検の歴史から始まったということになろう。
 人類が最初に氷を見たのは、ポリネシア人だと云われる。ニュージランドを初めて発見しその先住民となったのは、やはりポリネシアから移住したマオリ族だった。このマオリ族がさらに南下して航海したことは十分に納得できることである。
 しかし、本格的な南極へのアプローチは、十五〜十七世紀にかけての大航海時代に入ってからのことである。今も、当時の航海家たちの名前の記されたマゼラン海峡、ドレーク海峡などがあるのを見ても理解できよう。
 十八世紀に入り、イギリスのジェームス・クックが南極圏を航海したが、結局、南極大陸は発見できなかった。しかし、アザラシや鯨など海洋生物が沢山棲息することを世に知らしめたことから、南極は一気に捕鯨、アザラシ猟の時代に突入した。次第に南極の全容が見え始め南極大陸発見の足がかりを作ったのが彼ら狩猟者たちだった。
 彼らも、パーマ半島(南極半島のこと)、ウエッデル海、アデリーランド(ペンギンの名前になっている)とその名を残している。
 やがて、乱獲から資源が枯渇し始めると、いよいよ国を争って南極大陸に目が向けられ始める。

【探検の時代】

 一八四一年、北磁極の発見者であるイギリスのジェームス・クラーク・ロスは、遂に南極に活火山を発見し、この山に自らの探検船の名を取ってエレバス、隣の山をテーラーと名付けた。その海の名は、ロス海である。やがて、一八八二年に第一回国際極年が開かれることとなり、いよいよ南極は国際的に脚光を浴びてゆく。
 二十世紀に入り、イギリスのスコットやシャクルトンが陸路探検に入り、スウェーデンのオットー・ノルデンショルド隊が、スノーヒル島で動植物の化石を発見するなど、次第に探検に熱を帯びていった。

 

雪消えて基地跡遺す遭難碑  恵美子

【南極点へ先陣争い】

 こうしたとき、アメリカのピアリーが北極点を征服したと伝えられるや、今度は南極点に目が向けられ、誰が征服するかが焦点となった。
 そこに引き起こされたのが、ノルウェーのアムンセンとイギリスのスコットの南極点を目指す熾烈な競争であった。結果は、一九一一年十二月十四日、アムンセン隊が南極点にノルウェーの国旗を掲げて勝利を収めた。片や、スコット隊も三十四日遅れで到達し南極点を制覇したものの、帰路に悲壮な最期を遂げるという結末となり、ここに、南極点を巡る悲劇的かつ感動的なドラマは終わりを告げた。
 このアムンセンたちが南極点を目指していたとき、日本人もこの南極に足跡を残した人がいる。その人の名は、白瀬矗。彼は、一九一二年一月二十八日、南緯80度05分、西経156度37分標高三〇五mの地点に到達し、その地点から見える限りの氷原を「大和雪原」と命名し、日本の領土とすることを宣言した。

【領土権主張の時代へ】

 やがて、産業革命、第一次世界大戦を経て、人類の科学文明は急速な発展を遂げ、南極大陸探検の様相も一変する。世は航空機時代に入り、一九二九年には、アメリカのバード少将が飛行機によって南極点往復に成功した。こうして、第二次世界大戦前から南極もまた領土としての対象となり、各国の熾烈な基地獲得合戦の場と化してゆく。
 領土権を主張したのは、イギリス他六か国(アルゼンチン、チリ、ニュージランド、オーストラリア、フランス、ノルウェー)である。
 次回は、〝スラム化しつつある南極〟について書くとしよう。

アムンセン、スコット、白瀬各隊の南極点への道のり 「南極へゆきませんか?」(柿沼克伊著 出窓社刊より)

アムンセン、スコット、白瀬各隊の南極点への道のり
「南極へゆきませんか?」(柿沼克伊著 出窓社刊より)

出迎え隊が来ず、スノーヒル島に残ったノルデンショルド隊は、 ふた冬越冬することになった。その小屋が復元されて残っている

出迎え隊が来ず、スノーヒル島に残ったノルデンショルド隊は、
ふた冬越冬することになった。その小屋が復元されて残っている

ラーセン一行が、ポーレット島に避難して一冬過ごした石小屋跡。 ラーセン隊は、ノルデンショルド隊を迎えに行って二度遭難し、 この島に避難した

ラーセン一行が、ポーレット島に避難して一冬過ごした石小屋跡。
ラーセン隊は、ノルデンショルド隊を迎えに行って二度遭難し、
この島に避難した

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上川庄二郎(かみかわ しょうじろう)

1935年生まれ。
神戸大学卒。神戸市に入り、消防局長を最後に定年退職。
その後、関西学院大学、大阪産業大学非常勤講師を経て、
現在、フリーライター。


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目次 2010年10月号