
連載 浮世絵ミステリー・パロディ㉒ 吾輩ハ写楽デアル
中右 瑛
「にっぽん写楽祭」シンポジウム異聞
「しゃらくせいイベントだなァ!」
吾輩もびっくり仰天!
「にっぽん写楽祭(しゃらくせえ)」なるオモシロ・イベントが、以前、大阪で開催された。推理ブームにあやかって、吾輩のナゾに迫ろうというもの。
「写楽は何者だ!」 その写楽正体探しにまつわるさまざまな写楽別人説。それも30にものぼるという。
それではいかなる説があるのか。明治43(1910)年ドイツのクルト氏がショーゲキ的に発表した、阿波侯能役者・斎藤十郎兵衛説にはじまって、絵師の円山応挙説、いや司馬江漢、浮世絵師の喜多川歌麿だ、奇人のかつしか北斎だ、シャレ狂歌師の山東京伝、ユーモア作家の十返舎一九、いや出版元の蔦屋重三郎では?…と、さながら江戸文化人名簿のごとくに当時の有名人が登場する。が、どれが真説なのやら、さっぱり見当がつかない。
25年ほど前のことだ。高橋克彦氏の推理小説『写楽殺人事件』のヒットがきっかけで、池田満寿夫氏がナゾに挑戦、NHKテレビで歌舞伎役者・中村此蔵説を展開させた。哲学者・梅原猛氏は「豊国こそ写楽」と、池田氏に反論。そのさなか、少年絵師・鳥居清政説を唱える中右瑛氏は『写楽は十八歳だった!』という本を出版、『フォーカス』(1985年2月22日号)された。
梅原氏は、此蔵説と清政説について、『芸術新潮』(1985年4月号)で、
「池田満寿夫氏の論は、真夏の夢であって、まさか池田氏が真面目に自説を主張しているとは思わなかった。正直にいって池田氏や、その協力者である川竹文夫氏の推論が可能なら、当時の人間ならば誰をもってきてもこれが写楽だ、ということができよう。その意味で、写楽を鳥居清長の息子で、寛政五年に筆を絶った鳥居清政と考える中右瑛氏の説のほうが、まだしも学説として検討に値しよう。ただ中右氏の場合も、他の応挙説・江漢説・北斎説などと同じように、最初から写楽を清政と決めつけて、そこで一つの小説をつくっているのである(抜粋)」
と述べている。梅原氏は池田説を「真夏の夜の夢」とまでこきおろし、中右氏のはそれよりは学術的である、と論評した。写楽論議は、激烈にはじまっているのである。
以後、新説、珍説が続出、ついに突飛な外人説「オランダ人シャーロック(写楽)」まで飛び交うありさま。諸説はとどまることを知らない。いま、写楽論議がブームなのである。
「にっぽん写楽祭」は、1986年10月、大阪府立文化情報センターで、写楽ブームの仕掛け人と自負する輩が大集合して、“パフォーマンス”やら“シンポジウム”やら、ワイワイ・ガヤガヤ。東京からは、中村此蔵説を展開させた池田満寿夫氏、「写楽は写楽である」と正論を吐く瀬木慎一氏、『写楽道行』という小説を発表した俳優のフランキー堺氏ら強者どもがやってきて、関西からは日本一の写楽通と自称する中右瑛氏が加わり、4人のパネラーで「写楽は何者だったのか?」と、ウンチクを交わすというのだ。ゲストには、関西洋画壇の重鎮・須田剋太画伯、それに浮世絵界の名門・歌川家の六代目・豊国老人らが参画した。
|血の雨が降る?|という伝説があるくらいに、写楽論議にはトラブルがつきもの。パネラーたちは互いに自説をゆずらず、相方つかみあいのケンカ…という前例もあった。
シャーロック(写楽)ホームズを気取る探偵たちが、
「なぜ? 此蔵でなければいけないのか」
「なぜ? 清政なのか」
「なぜ? 写楽は写楽なのか」と、各自、その自説を開陳することになった。このシンポジウムは、はじまる前から大いに期待? されていたのである。
つづく

「にっぽん写楽祭」のポスター(1986)
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。
浮世絵・夢二エッセイスト。
1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。