浮世絵にみる神戸ゆかりの源平合戦 第22回

中右 瑛

女人哀史
捕らわれの重衡(しげひら)の心を癒す千寿

一の谷合戦で哀しくも散った平家の武将は多いが、源氏方に捕らわれ生き恥をさらした武将は、平重衡(しげひら)である。この重衡にも二人の女性哀史が残されている。
重衡は清盛の第四子。母は二位尼・平時子。同腹には兄の宗盛、知盛、妹には高倉天皇に入内した徳子らがいる。
治承四年(1180)十二月、平家軍の南都攻撃の際の総大将として活躍。東大寺、興福寺以下南都諸寺を焼き尽し、世を震撼(しんかん)させた。大仏炎上の張本人として、源氏方や奈良法師たちらから、重罪人の汚名をきせられていた。
一の谷合戦では、馬を射られて落馬。梶原景時の手に捕らえられた。清盛の実子を生け捕ったことは、源氏方を大いに勇気づけたのである。源氏方は、白川法皇のたっての依頼により、生け捕りの重衡と皇位継承の証拠品・三種の神器との交換を申し出た。二位尼は母としての情に勝てず、源氏方の申し入れに応じるようにと、平家の棟梁・平宗盛に泣いて頼むが、宗盛は拒否した。
重衡の妻・大納言典侍(すけ)は幼い安徳天皇の乳母で、二位尼時子、安徳天皇の生みの親・徳子らと共に行動し、一の谷合戦、屋島合戦の敗北で壇ノ浦にまで落ちのびたが、平家方の終焉を悟り、二位尼時子と安徳天皇は入水。溺れていた徳子と典侍は源氏方に助けられた。
典侍は生け捕られた夫の重衡のことが気がかりで、再会したいという望みが生きながらえさせた!と伝わる。
鎌倉に護送された重衡は、源平合戦のことごとくが敗北し、平家一族の滅亡を知り、悲観の日々を過ごしていたが、頼朝は重衡の心を安らげるために、手越の長者の娘・千寿(千手)(せんじゅ)を世話役として遣わせた。千寿は琴を弾き、和歌を詠じて舞い、重衡の心をいやす。千寿のもてなしが、いつしか恋となっていく。しかし、重衡と千寿にやがて別離の日がやってきた。文治元年(1185)6月、重衡は大仏焼失の責を問われ、奈良法師方に引き渡されることになったのである。
典侍は奈良に護送される重衡に一目会いたいと、奈良に護送される重衡と、途中の日野で再会を果たす。しかし、再会間もなく6月23日、重衡は木津川のほとりで処刑されてしまった。彼女は夫の亡骸を荼毘に付したあと、出家した建礼門院徳子を大原にたずね、典侍も出家し女院に仕え、生涯を終えたという。
一方、鎌倉の千寿は重衡の処刑を伝え聞いて無常を悟り出家し、その菩提を弔ったという。
重衡をめぐる二人の女性。平家女人哀史のドラマチックな縮図を見るようである。

「東錦晝夜競 千寿の前」揚洲周延 重衡のご前で舞う千寿

「東錦晝夜競 千寿の前」揚洲周延 重衡のご前で舞う千寿

■中右瑛(なかう・えい)

抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。


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目次 2013年10月号