神戸鉄人伝(こうべくろがねびとでん) 特別インタビュー 第52回

剪画・文
とみさわかよの

洋画家
吉見 敏治(よしみ としはる)さん

阪神間の洋画界で、会派を超えて一目おかれる吉見敏治さん。自由美術協会に所属、面倒見の良さと交渉力に定評があり、神戸・大阪の洋画家の相談役のような存在です。絵画へのまなざしはいつもまっすぐで率直。「戦後の闇市で思想形成した」とおっしゃる吉見さんに、お話をうかがいました。

―「火垂るの墓」で知られる作家・野坂昭如氏とも同級生とか。
そう、僕らは子供時代は戦争真っ盛り、思春期前後で敗戦を迎えたからどうしてもそこが人生の出発点になる世代。僕は「終戦」なんて言葉は無いと思ってる、あれは「敗戦」だ。昭和20年の3月と6月の空襲で神戸は焼野原、父は戦死して家は没落、兄は病気になり、旧制中学3年生だった僕が家族を支えなくてはならなくなった。三宮の闇市に1坪ほどの店を出して雑誌を売って、ヤミで煙草を売ってね。ずいぶん酷い目にも合ったけど、僕はあの焼け跡で自分の生き方を見い出したんだ。

―すると絵画は独学ですか?
まあ独学、我流だね。ゴッホのデッサン集を買って、竹ペンで模写して勉強した。主に自由美術に出品してきたけど、団体の運営にかかわるようになってからは、自分の団体だけを見ているようではだめだと思うようになった。他の組織ともつながって、自身を外から見ることも大事だと思った。神戸芸術文化会議は芸術オールジャンルの団体だし、今僕が関わっている兵庫県洋画団体協議会も洋画の会派をつなぐ組織だ。

―交渉事となると、会派を超えて頼りにされているようにお見受けしますが…。
僕は闇市の雑誌屋の後は本の取次店に勤め、その後阪神電鉄に入社して三宮駅や元町駅に勤務した後、組合の仕事も勤めあげた。だから「交渉」の基本が身に付いているのかもしれない。原田の森ギャラリーを利用し易くするために、県と交渉したこともある。

―ずっと神戸が活動拠点だったのですか?
渡航の話もあったけど、生活を背負ってたから勝手はできなかった。野坂昭如氏や横山光輝氏みたいに東京へ出て大成した人たちもいるけど、僕はずっと神戸。あの大空襲だけでなく、阪神・淡路大震災で自宅全壊という経験もしながら、神戸で80年やってきたという自負はある。世の中は目まぐるしく変わっていったけど、僕はブレないでやってきたつもり。僕の作品の『壁』のシリーズ、あれは闇市の壁。50枚の阪神・淡路大震災の記録画も、原点は敗戦後の焼け跡に遡る。抽象画も実体験に基いた抽象で、正に「国敗れて山河あり」という僕の出発点なんだ。

―最近は、東日本大震災の被災地へも出向いておられます。
兵庫県洋画団体協議会の仲間と、「同じ被災体験を持つ画家として何ができるか」を話し合い、気仙沼や石巻の被災した人たちに色紙を贈る運動を始め、2年で合計256枚を贈ることができた。この1月には僕も世話人たちと石巻へ行って、展覧会を開催した後に色紙を自治会に届けてきたんだ。

―これからも、ご自身の画業と様々なお世話役の両輪ですか。
世話活動も僕の活力だよ。僕に限って言うと、絵に専念してたらいい絵が描けるってわけでもない。人と接して、触発され活力をもらうこともある。体の続く限り両方やりたいと思ってるけど、人間の情報量や仕事量には限りがあるし、これからは後継者も育てないとね。

(2014年3月5日取材)

長時間、疲れも見せずに熱く語ってくださった吉見さん。正に昭和の生き証人という感じでした。

とみさわ かよの

神戸のまちとそこに生きる人々を剪画(切り絵)で描き続けている。平成25年度神戸市文化奨励賞受賞。神戸市出身・在住。日本剪画協会会員・認定講師、神戸芸術文化会議会員、神戸新聞文化センター講師。


ページのトップへ

目次 2014年4月号