第六回 兵庫ゆかりの伝説浮世絵

20140807801

中右 瑛

高砂の船頭・徳兵衛、唐天竺に渡る
――『天竺徳兵衛韓噺』由来 ――

高砂の徳兵衛という名を皆さんご存知あるまいが、蝦蟇(がま)の妖術師・天竺徳兵衛(てんじくとくべえ)なら、芝居でお馴染みのはずだ。江戸の歌舞伎狂言の作者・四世鶴屋南北の奇想天外な狂言『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』に登場する徳兵衛は、唐天竺にまで渡り、帰国後、蝦蟇の妖術を使って日本国を乗っ取ろうとした波乱万丈、スケールの大きい男。高砂の徳兵衛は、そのモデルだという。
徳兵衛は慶長十七年(1612)、高砂船頭町で生まれた。代々、船頭を生業とした赤穂屋の五代目に当たる。
ころは秀吉天下の時代。世は、盗賊・石川五右衛門、利休や堺州の豪商・呂宋助左衛門など異才なる人物が光彩を放っていた。
京の角倉了以や呂宋助左衛門らは、秀吉の命により、唐土やルソン、シャム、遠くは天竺(インド)までも交易していたのである。その船が唐土に渡る途中、高砂港に立ち寄った。船頭・徳兵衛が呂宋助左衛門と出会ったのは、その時だった。
「船頭に生まれたからには、唐天竺の大海を渡るのが夢」
徳兵衛は、かねてより名も高き呂宋助左衛門への思慕、異国への憧憬の念もあって、呂宋助左衛門の船の船頭として雇ってもらった。寛永三年(1626)十月、徳兵衛十五歳(数え)の時、念願叶って唐土に渡ったのだ。
唐は日本より文化が進み、物資も豊かで、見るもの、聞くもの珍しく、若き徳兵衛には、まるでオトギの国へ来たようだった。金、銀、サンゴ、絹、織物などなど、そんな貴重品を交易していた。
なかでも、“ルソンの壺”“高麗の茶器”などは茶人の垂涎の的で、秀吉は惜しげもなく万金を投じ、呂宋助左衛門は巨万の富を得たのだが、のし上がっていく呂宋助左衛門に秀吉は嫌疑し、それがもとで呂宋助左衛門は失脚した。呂宋助左衛門は財産一切を神社に寄進し、裸一貫となり、ルソンへ去り消息を絶った。
英才の徳兵衛は、呂宋助左衛門の後継に起用され、たびたび唐土に渡り、帰国後は大阪上塩町で舶来品店を営み、財を成したという。人々は異国帰りの徳兵衛のことを、天竺徳兵衛と呼ぶようになった。
晩年、徳兵衛は剃髪し、元禄元年(1695)、八十四歳で没したという。
高砂細工町の善立寺には徳兵衛の墓があり、シャムより持ち帰った経文一巻『貝多羅葉』(写本)が伝えられている。幻の徳兵衛、いまもここに眠るという。しかし、その実態はミステリーに包まれたまま。こうした希代の異色体験が、後世、芝居のモデルになったのである。
四世鶴屋南北が書き下ろした『天竺徳兵衛韓噺』が、文化元年(1804)七月、江戸河原崎座で上演され評をとった。異国帰りの天竺徳兵衛を妖術師として登場させ異国情緒を盛り上げ、そのうえ、奇想天外な筋運び、蝦蟇の妖術、早替り、スリリングな舞台仕掛けの面白さもあって見物衆から大喝采を浴びたのだ。見物衆はスペクタクルに酔いしれたのである。
幽霊芝居『東海道四谷怪談』など、怪奇芝居の魁となり南北の出世作となった。

天竺徳兵衛実ハ義仲一子大日丸 歌川豊国画 安政四年

天竺徳兵衛実ハ義仲一子大日丸 歌川豊国画 安政四年

■中右瑛(なかう・えい)

抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。


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