神戸鉄人伝(こうべくろがねびとでん) 第56回

剪画・文
とみさわかよの

日本画家
西田 眞人(にしだ まさと)さん

余白のある構図、生い茂る草木が風に揺れる様は、優美な日本画。一方、写実的に神戸を描いた作品は、まるで洋画のよう。古典に立脚しながらも現代の技術を取り込み、柔軟な発想で日本画を制作する西田眞人さん。「実は遅咲きで、苦しい時代が長かったんです」とおっしゃる西田さんに、お話をうかがいました。

―なぜ日本画の道に進まれたのですか?
幼稚園の頃から絵は好きで、赤胴鈴之助の絵を描いてほめてもらいました。でも漫画やアニメには無い、ファインアートの魅力を感じ始めたのは、中学生になってからです。中学校2年生の時、教室に掛けられたルオーの「老いたる王」の複製を見て、絵肌の迫力や表現力を感じ、絵画に興味を持ちました。兵庫高校時代は東山魁夷や小磯良平に憧れていましたが、大阪で初めて日展を見て油画よりすっきりとした日本画に魅かれ、京都芸術大学へ進む頃には日本画をやると決めていました。

―そんなに早くから、ご自身の方向を定めておられたと。
でも挫折の連続でした。大学院へ進めなかった時には、自分の能力を疑いました。それでもやはり「絵をやりたい」気持ちの方が勝って、公募展に出品する道を選びます。経済的なことがしっかりしていないと絵も描けないからと私学の教員になり、日展に出品を続けましたが落選続き。自分は公募展にも向いていないのかと自信を無くしました。そんな中、昇外義先生に出会い絵を見てもらうようになります。昇先生はすごい技術を持った日本画家でしたね。月に1度でしたが、2年程お世話になりました。

―そうやって、志を貫かれたわけですね。
公募展で無理なら個展でやっていこうと、初めてイタリアへ行きヨーロッパの文化にびっくりしました。帰国後にイタリアを描いた小品に画商が付き、38歳の時に日展に初入選を果たします。その後青塔社に入塾し、ここでいろいろな画家の仕事の進め方を知ることができて、とても勉強になりました。僕は絵というと、どう描くか―いかにアウトプットするかばかり考えて、インプットの大切さに気付くのが遅かった。プリンターの性能がどんなに良くても、内容が無ければ意味がない。絵を描くことは手先だけの作業ではないと今はわかりますが、若い頃はやはり見えていませんでした。

―母校の京都芸大で指導をしておられますが、どのような指導を?
昔と違って「日本画」の範囲も限定しにくいし、既存の体制や制度もあてにできません。学生たちにはいろいろなチャンネルを模索するようにと言っています。洋画の影響を受けた日本画がさらにその存在感を輝かそうと思ったら、古典の技法を見直す必要がある。だから古典技法は、時間をかけて教えます。それと同時に時代に合わせて新しい技術を取り入れることも大切ですから、PCを使うことも否定しません。僕の風景画は日本画の技法で描いていますが、洋画の技法を知った上での日本画ですし、小下絵でPCも駆使しています。

―神戸風景を描いた作品には、阪神・淡路大震災を描いたものと光輝くまちを描いたものがありますが、これは?
震災風景を描くことには抵抗がありましたが、絵を描く者としてやはり描かずにはおれず、勤務する学校のあった周辺から描き始めました。初めは隠れるように写生をしていたんですが、被災者から「絵で記録しとくことも大事やね」と言われ、だんだん本格的に描くようになりました。この時のスケッチを基本に一連の震災風景を仕上げ、悲惨な神戸を描いたから今度は美しい神戸も描こうと思い、光あふれるハーバーランドの風景などを手掛けました。2000年にひとまず「神戸」作品を終え、今は意識的にイギリス風景を描いています。生まれ育った神戸は魅力的な街ですが、やはり制作は新しいことに取り組まないといけないですから。       (2014年7月5日取材)

控えめな西田さんですが、絵に関しては「譲れないものもあります」と、どこまでも画家を感じさせる方でした。

とみさわ かよの

神戸のまちとそこに生きる人々を剪画(切り絵)で描き続けている。平成25年度神戸市文化奨励賞、平成25年度半どんの会及川記念芸術文化奨励賞受賞。神戸市出身・在住。日本剪画協会会員・認定講師、神戸芸術文化会議会員、神戸新聞文化センター講師。


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目次 2014年8月号