大正8年(1919)頃の山本通の地図。松方幸次郎邸、神戸女学院、小寺邸が見てとれる(赤丸で囲んだ部分)〈著作・製作/紙久図や 京極〉

神戸の発展と山本通

諏訪山の山裾に広がる山本通は、居留地や元町にほど近いながらも豊かな自然を享受でき、活気に満ちた港を望む爽快さも相まって今も昔も魅力的な住宅地であるが、この地が神戸草創期の歴史の舞台だったことはあまり知られていない。山本通ゆかりの人物を通じて、その一片に触れてみよう。

山本通と明治の偉人たち

今や市民の憩いの場としてすっかりおなじみの相楽園。都会のオアシスのような約2万平米の広大な敷地は、かつてのお屋敷であった。その邸宅を築いた小寺泰次郎(神戸市長小寺謙吉の父)は旧三田藩の重臣だった人物だ。
混沌とした幕末においても、三田藩は藩主の九鬼隆義のもと、日本初のビール醸造などで知られる蘭学者、川本幸民の影響もあって開明的な雰囲気があった。廃藩置県後、九鬼隆義は家老の小寺泰次郎、白洲退藏(白洲次郎の祖父)らとともに神戸に出て実業家に転身、やがて輸入商社「志摩三商会」を設立した。ちなみに屋号の「志摩」は九鬼家(九鬼水軍)発祥の地、「三」は三田の三であるという。その裏で神戸の土地に投機をして巨万の富を得たが、その陰にいた人物こそ福沢諭吉である。彼は緒方洪庵の適塾出身で、洪庵は諭吉の才能を高く評価し学友の川本幸民に紹介、さらに幸民が九鬼隆義に紹介し、商社設立や神戸の土地買い占めを進言したという。なるほど、〝1万円札〟に相応しい人物だと頷ける。
現在の神港学園の場所は、神戸女学院発祥の地である。旧三田藩士の前田泰一や白洲退藏の屋敷で英語・唱歌を教えていたタルカット、ダッドレー両女史が、米国のみならず九鬼家や旧三田藩士らの支援を受け、ここに女學校を開校した。ちなみに当時は外国人が土地の名義人になれなかったため、新島襄が名義人となり、襄の没後は妻・八重が引き継いだ。襄は体が丈夫ではなく、たびたび神戸で療養していたが、その際山本通にも滞在していた。
日本人のアメリカ帰化第一号にして「新聞の父」、アメリカ彦蔵ことジョゼフ・ヒコも山本通に居をおき、鐘紡を発展させた武藤山治も一時期この家に住んでいたそうだ。
そして、もう一人。山本通の住人として忘れてならない人物が。それは、松方幸次郎である。

松方幸次郎の生涯

松方幸次郎は慶応元年(1865)、松方正義の三男として誕生した。正義は薩摩藩の下級藩士からやがて首相となる人物で、15男7女の子だくさん。天皇から子どもの数を訊ねられて即答できなかったという逸話も残っている。
幸次郎は高橋是清(後の首相、二・二六事件で暗殺される)率いる共立学校(現在の開成高校)でやがて洋画家となる黒田清輝と机を並べ、東京大学予備門に進学するも紛争を指揮し退学、アメリカへ渡りラトガーズ大学やエール大学で学ぶ。
帰国後は首相に就任した父・正義の秘書官などを経て明治29年(1896)、株式会社となった川崎造船所の初代社長に就いた。川崎造船所はそれまで創業者の川崎正蔵の個人経営だった。正蔵は同郷の正義に多額の政治献金をしており、幸次郎の留学資金を支えていた。また、正蔵には三人の息子がいたがいずれも夭折。三男の新次郎は留学先のアメリカで亡くなり葬儀には幸次郎も参列している。跡継ぎを失った正蔵は、幸次郎に白羽の矢を立てたのである。
社長に就任した幸次郎は精力的に活動、難工事を乗り越え巨大な乾ドックを完成させ、さらにガントリークレーンを設けて「榛名」などの船艦や潜水艦の製造にもあたった。世界にも目を向け、海外の先進技術を積極的に導入するだけでなく、第一次世界大戦が勃発するや否や資材不足を見越して鋼材を買い占め、船はオーダーメイドという常識を打破し既製品のストックボートを建造するなどのアイデアで、三菱を凌ぐ利益をあげた。
川崎汽船や国際汽船などの船会社のみならず、鉄道車両や航空、自動車、製鉄など事業の手を広げるほか、今の阪神電車や西日本鉄道の設立にも関わっている。一方で神戸新聞の創刊に携わり社長に就任、神戸の港湾整備にも尽力し神戸の発展に寄与、親しかった鈴木商店(今の神戸製鋼などの前身)の金子直吉とともに明治から大正にかけて、神戸を拠点に世界の経済を大きく牽引した。
ところが昭和になると世界恐慌や戦艦製造の制限などで社運は傾き、川崎造船所を去ることに。しかし、その後もソ連からガソリンを輸入し石油価格の高騰に一石を投じたり、衆議院議員に当選し日米開戦を「無謀な戦争」と東条英機を罵倒したりするなど、晩年まで熱い血を持ち続けた。
孫文とも交流が深く、ロシアの陸軍大臣、クロパトキンにも一目おかれていた幸次郎にはもう一つの側面が。国の文化向上のためにと心血を注ぎ、美術コレクターとして総数不明(約1万点といわれる)の膨大な西洋美術・浮世絵のコレクション「松方コレクション」を成した。懇意だった英国の画家・ブラングィンや同窓の黒田清輝とともに美術館建設を夢見ていたが、関東大震災などで叶わず、戦後、コレクションの一部が国立西洋美術館などに収められている。

賽銭も投げられるお屋敷

松方幸次郎の屋敷は神戸女学院の東隣にあったが、女学院はこの土地を垂涎の思いで見つめていた。というのは、生徒が順調に増え続け、敷地が手狭になって拡張の必要に迫られていたからである。当時、神戸市の地価は著しく高騰していた。そのため学校の東隣の土地建物の買収が急がれたが、手続きが遅れ、わずか三週間の違いで松方の手に渡ってしまった。学校では、後年そこに松方の本邸ができてからも、幾度かその敷地の買収を計画したそうだが、実現には至っていない。理由のひとつは松方がこの私邸を大変気に入っていたからだと言われている。
大正時代の地図を眺めると、掲載されている個人邸は、前述の小寺邸(現在の相楽園)と松方邸だけ。松方邸は面積こそ小寺邸の約半分であったが、鬱蒼と茂る木立に馬場まで備えた堂々たる屋敷で、敷地の南端には御影石の重厚な門があったそうだ。門前から眺めると、生い茂った木立ばかり。その間から二つの池などが覗けたようで、寺社の山門と勘違いしたのか、門の真ん中に飾ってあった大きな青銅製の鉢にお賽銭を投げ入れる人もいたという。
毎朝6時前になるとその門は開き、幸次郎を乗せた2頭立ての馬車がゆっくりと出て、一路川崎造船所へと向かった。幸次郎が自動車ではなく馬車を愛用していた理由はわからないが、3種の馬車を持っていたという。蹄の音を立てながらの出勤途中、遅刻しそうな社員を見かけると馬車に乗せて会社に向かったそうだ。
そんな神戸らしい華やかでモダンな邸宅文化は今となればお伽話のようだが、風格と静寂は時を超え、この地を包んでいる。

川崎造船所や神戸新聞社の社長を務めた松方幸次郎

川崎造船所や神戸新聞社の社長を務めた松方幸次郎

神戸市が誕生した明治20年(1887)頃の風景。写真右の中ほどの塀に囲まれた部分が、建設中の小寺泰次郎の邸宅(現在の相楽園)。 写真/横浜開港資料館

神戸市が誕生した明治20年(1887)頃の風景。写真右の中ほどの塀に囲まれた部分が、建設中の小寺泰次郎の邸宅(現在の相楽園)。 写真/横浜開港資料館

写真左の左下部分が神戸女学院の敷地と考えられる。その東隣に松方幸次郎が、邸宅を構えることになる

写真左の左下部分が神戸女学院の敷地と考えられる。その東隣に松方幸次郎が、邸宅を構えることになる

小寺泰次郎は明治9年(1876)、屋敷を建築。この屋敷は昭和16年(1641)に神戸市が譲り受け、相楽園として市民に開放されている

小寺泰次郎は明治9年(1876)、屋敷を建築。この屋敷は昭和16年(1641)に神戸市が譲り受け、相楽園として市民に開放されている

参考資料

神戸新聞社・編『火輪の海-松方幸次郎とその時代-復刻版』神戸新聞総合出版センター
落合重信・有井基『神戸史話-近代化うら話』創元社
『おもしろ有馬学・第5回兆楽亭』レジュメ
神戸女学院百年史編集委員会
『神戸女学院百年史 総説』神戸女学院


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目次 2014年10月号