第八回 兵庫ゆかりの伝説浮世絵

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中右 瑛

代々の姫路城主の奥方には、徳川家から輿入れした女人が多い。播磨御前とうたわれた督姫(池田輝政夫人)は徳川家康の娘、喜代姫(酒井忠学夫人)は十一代将軍・徳川家斉の娘。それぞれ優雅で華麗なる人生を姫路城で過ごした。そのどれもが政略に、時代の波に翻弄された女人たちである。
姫路城の女王として十年間、君臨した千姫も、徳川家康の孫である故に、数奇なる運命を歩んだ女人の一人である。
千姫は慶長二年(1597)四月十一日、二代将軍・徳川秀忠を父とし、正室・於江与を母として、伏見城で生まれた。翌三年の夏、病に伏せていた太閤秀吉は、まだ二歳にもならぬ千姫を、六歳のわが子・秀頼の許婚と定め、結婚が必ず実行されるよう遺言し、その秋の半ば世を去った。
千姫は七歳にして秀頼の妻となったのが、波乱の人生の始まりだった。結婚とは名ばかりで、人質にとられたのも同然、政略の犠牲となった。
千姫十九歳のとき、豊臣家の終焉となった“夏の陣”が起こる。天和元年(1615)五月八日、家康・秀忠の軍は大阪城を攻撃、城は炎に包まれた。
「もはや、これまで」
夫・秀頼は母・淀君らと自害、死を決し夫の後を追おうとした千姫だったが、しかし、運命は瞬時にして変わる。
「救ったものに娘をやる!」
家康の言葉を信じた坂崎出羽守は顔に大火傷を負いながら、炎の中の千姫を救い出した。
千姫は救われることを願っていたのではない。家康を憎み、救った出羽守を恨んだ。
それからの千姫は、出羽守を嫌って、美男の誉れ高い本多平八郎忠刻と恋に落ちた。落城のショックを忘れたかのように・・・。
平八郎忠刻は勢州桑名の城主・本多美濃守忠政の嫡男。千姫は列女の如く忠刻に恋をした。家康は出羽守との約束を反故にし、忠刻との結婚を許した。千姫が忠刻に再嫁したのは大阪城落城のあくる年、元和二年(1616)九月のことだった。
「千姫を殺害せん!」
約束を反故にされ激怒した出羽守は輿入れ行列を襲ったが果たせず、捕らわれ自害を命じられた。坂崎一族は断絶、出羽守の悲話はこうして生まれた。
翌年八月、千姫は桑名から姫路城に移った。本多家は桑名十万石から加増され十五万石、千姫の化粧料として別に十万石が与えられた。いま、城に残る西の丸、化粧櫓は千姫の為に作られたもの。
姫路城に移った次の年、元和四年(1618)、千姫は勝姫を産んだ。姫路の千姫は夫や勝姫に囲まれ、生涯でもっとも平穏で楽しいひと時だったに違いない。しかし、運命は過酷であった。忠刻と夫婦になって十年目、寛永三年(1626)、忠刻は三十一歳で病死した。最愛の夫の突然の死。本多家は弟たちに相続され、千姫は一人娘・勝姫を連れて城を後にしたのである。
徳川家に復帰した千姫は落飾して天樹院と称す。寛文六年(1666)七十歳で没した。勝姫は寛永五年(1628)11歳のとき、備前岡山三十二万石の藩主・池田光政に嫁ぐ。
ひと時にせよ、千姫は播州姫路の白鷺城の女王だったのである。

一魁斎芳年画 魁題百撰相 秀頼公北之方(千姫)

一魁斎芳年画 魁題百撰相 秀頼公北之方(千姫)

中右瑛(なかう・えい)

抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。


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