湯川秀樹が歩いた街「苦楽園」

 去る10月7日に飛び込んだビッグニュースは、日本中を歓喜に包んだ。青色発光ダイオードの開発により、赤崎勇氏、名古屋大学教授の天野浩氏、中村修二氏がノーベル物理学賞を受賞。これにより日本出身者のノーベル賞受賞者は合計22人となったが、その栄誉ある第一号は、物理学者の湯川秀樹博士(明治40年〔1907〕~昭和56年〔1981〕)だ。
 湯川博士は昭和24年(1949)、陽子と中性子との間に作用する核力を媒介する中間子の存在を予想したことよりノーベル物理学賞を受賞。戦後の混乱期の日本に大きな希望を与えたが、その理論を発表したのは昭和9年(1934)、27歳の時。当時、博士は苦楽園に居を構えていた。
 湯川博士の父は、日本の地理学の父といわれる小川琢治。幼い頃から京都で暮らし、京都大学に学んでいたが、昭和7年(1932)に湯川スミと結婚し、大阪市内で病院を営んでいた湯川家の婿養子となり湯川姓を名乗ると同時に、大阪市内の湯川宅で義父たちと同居するようになった。
 当時の大阪は、東京を凌ぐ活気に満ちた商都であった。一方、工業が発展していたため工場の煤煙が街を曇らせ空気がよどみ、決して快適に暮らせる環境ではなかった。
 義父、湯川玄洋の体調のこともあり、昭和7年(1932)の夏、湯川家は苦楽園に借家を借りて過ごすことになった。苦楽園は大阪の家と違い、窓から煤が入ってくることもないので、暑い日でも窓を開けるのをためらう必要もない。空気清涼で、心臓を患っていた玄洋の保養にも良いこともあり、苦楽園のバス停の近く、三笑橋の近くに家を建てて暮らすこととなった。
 湯川家が引っ越してきた頃の苦楽園は、行楽地としては寂れはじめていて、旅館の廃墟などがあったものの、保養型郊外住宅地へと変化しつつあった時代。実際に湯川家も大阪の不健康な環境から、空気が清涼で程良く乾燥し、日当たり良好、夏も涼しいという理想的な環境を求めてこの地を選んだ。
 湯川博士は日曜日などに散歩を楽しんだ。家の前には桜並木があり、5月になると満開のつつじが美しく、10月には松茸がとれるなど、自然と親しむにはまたとない環境。洋館も建ち並び、そのエキゾチックな雰囲気もお気に入りだった様子だ。
 そしてもう一つ、眺望の良さも湯川家の人々の心をとらえた。玄洋は一日中南側の窓に近いところに座って海を望み、夕食後のひとときは家族揃って窓際に並んで、街の灯や行き交う電車・汽車の明かりを飽きずに眺めていたという。
 深夜にアイデアが思い浮かんでは電灯を点けてノートに書き込むようなことを何度も繰り返し、不眠症になっていた湯川博士の心を、苦楽園の地はその清らかな空気と麗しい自然、美しい眺望でどれだけ癒やしてくれたことだろう。やがてこの地で求めていた答えを見出し、妻の勧めもあり「素粒子の相互作用について」という英文の論文を発表。この内容がやがてアメリカの物理学者の実験により証明され、栄誉あるノーベル賞を受賞することになる。
 湯川博士は自伝『旅人 ある物理学者の回想』の「苦楽園」の冒頭で、苦楽園の家を「私にとって忘れることのできない、思い出の家」と評している。また「苦楽園口駅から自宅までの帰り道を、のちに『中間子理論』に倒る思案をしながら歩いた」とも伝わる。さらに、妻のスミも自身の回顧録を『苦楽の園』と命名している。湯川夫妻にとって、苦楽園は人生で最も愛した地であった違いない。
 なお西宮市は、湯川博士がノーベル賞受賞に結びつく論文を、苦楽園に在住していた時に執筆していた事を記念して「西宮湯川記念賞」を制定。理論物理学における研究を奨励すべく、若手研究者の顕著な研究業績に対し、贈呈している。
 湯川博士の偉業の陰には、苦楽園の得がたい環境があった。この地は、物理学にとってもひとつの「聖地」なのかもしれない。

昭和初期の頃の苦楽園の全景写真(昭和初期絵葉書・永井悦蔵氏資料)

昭和初期の頃の苦楽園の全景写真(昭和初期絵葉書・永井悦蔵氏資料)


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目次 2014年11月号