昭和11年(1936)に建てられた。戦争・大震災を経た今でも、ますます輝きを増す応接室

芦屋平田町に歴史を刻む洋館・稲畑邸

ホトトギス社 名誉主宰 稲畑 汀子 さん

芦屋市平田町の洋館・稲畑邸は「ひょうごの近代住宅100選」にも選ばれる名建築。重厚な姿に戦災・震災を経てきた78年の歴史を刻み、凛として佇んでいる。

一流を知る姑が選び、建てた家

 昭和11年、私の夫・稲畑順三の父と母によって、この洋館が建てられました。当時の資産家たちは、阪神間をベッドタウンとしていましたが、その中でも、2人がとても気に入ったのが平田町だったようです。1600坪の土地を入手し、400坪もある家を建てました。後に、父が亡くなったとき、600坪は手放すことになります。
 姑が育った京都南禅寺の大邸宅の敷地内には、疎水から引いた水が流れる川や滝があり、シジミとりができたとか。当主の稲畑勝太郎は、明治天皇の命でフランスに留学し、辛い思いもしながら染料や香料など色々な分野について学んだことを日本へ持ち帰り、後に稲畑産業を設立しました。日仏文化交流に貢献し、要人を招いてパーティーなども開いていたそうです。日本初の映画興行を行ったことでも知られています。
 そんな環境で育った姑ですから、一流のものを見る目を持っていたのは確かでしょうね。長女でしたので結婚しても稲畑家を継ぎ、気に入った平田町に、自分の気に入るものにしたいと建てたこの家に住み、生涯過ごしました。

華やかな歴史が詰まった応接間

 昭和31年、私は24歳で勝太郎の孫にあたる順三と結婚しました。昭和55年に夫が亡くなった後はずっと姑と子どもたちとこの家で暮らしてきました。私にとっては「お姑さん」に当たる人ですが、厳しさなど微塵も感じさせず、優しくてとてもいい姑でした。その姑も平成4年に亡くなり、1000坪の土地を主人の兄弟4人で分割することになりました。しかし、250坪の土地に400坪の家は大き過ぎ、やむを得ず一部は切り離しました。姑が大好きだった応接間を含む現在のこの家は、曳家工事で東へ6メートル、南へ3メートル動かして敷地に収めたものです。1ミリの歪みもなくすごい技術です。この家が非常にしっかりできていたこともあるでしょうね。2年後の震災にも耐え、現在に至っています。
 応接間には78年の歴史が詰まっています。主人は日米協会の会員でもありましたので、時には50人ものお客さまを迎えてパーティーを開き、ご馳走を作っておもてなししました。世界的なティノール歌手サルバトーレ・プユマ(ヴィットリオ・グイさん率いる楽団の一人)さんが歌った時には、その凄い声量でガラスがビリビリ震えるほどでしたよ。私が国際ボランティア協会の会長をしている関係で、フィリピンのアキノ大統領もお見えになりました。

つらい時代も乗り越えた応接間

 不思議なご縁で結婚前の私にも思い出があります。戦後、この周辺の邸宅はほとんどがGHQに接収され、米軍家族が住み、床の間がペンキで塗り替えられたなどという話もありました。稲畑家はカトリック教徒であったため、教会として使われていました。応接間の暖炉に上に祭壇が置かれ、オルガンもあり、2階には神父さまが寝泊まりされて、日曜日にはミサが行われていました。私はその頃、小林聖心の寄宿舎にいましたので、偶然、聖歌隊としてやって来たのです。もちろん、お嫁に来るなんて夢にも思っていませんから、「立派な家だなあ」などと思っていました。情けない話ですが一番印象に残っているのは、いただいたホカホカのふかし芋がとても美味しかったこと(笑)。戦後すぐのことですから、食べるものもなくて、いつもお腹を空かせていましたからね。
 私たちは、こんな日本のどん底を経験してきました。戦争では多くのものを失いますが、得られるものなど何もありません。二度とあってはならないことです。次の世代の人たちにお願いしたいのは、責任を持って平和をその次の世代へと伝えていって欲しいということです。

祖父・高浜虚子の思い出

 私自身は鎌倉で育ち、昭和10年に芦屋業平町に引っ越してきました。結婚前には、祖父の高浜虚子について全国を歩き、俳句の手ほどきを受けました。虚子は褒めてくれますが、決して手取り足取りの指導はしてくれませんでした。自分でいろんなことを学び取り、自分で理解して、俳句をつくりなさいという指導でした。私も「ホトトギス」の主宰を35年務め、今でも俳句の会をしばしば開いていますが、指導するものではなく、一緒に俳句をつくって楽しみましょうというものです。
 この家へは虚子も一度訪ねて来ているんですよ。大きな家だとびっくりしていたようです。「孫がこんな立派な家に嫁いでやっていけるのだろうか」という祖父としての思いがあったのでしょうね。

〝上等〟ではない、でも〝幸せな〟暮らしがそこにある

 実は、姑が亡くなり土地を分割する際、兄弟たちは皆「こんな大きな家はちょっと…」と辞退しました。そこで「じゃあ、私が…」といただいたものです。というのも、長く一緒に暮らした姑が生前、「汀子さん、この家を大事にしてくださいね」と常日頃言っていましたから…、私も「もちろんですよ!」と力強く答えてしまいましたから(笑)。私の力が続く限り守り続けていくつもりです。隣接する「虚子記念文学館」もあり大変ですが、頑張らなくてはね。
 人間は与えられた環境を謙虚に受け入れなくてはいけません。自然に対して畏敬の念を持たなくてはいけません。人間が少し傲りを持ち始めているのではないかと懸念しています。六甲山があり川があり海がある。この風景が私は大好きです。でもそれ故に災害の歴史もあることを忘れてはいけません。偉そうなことを言ってしまいましたが、ぜひ伝えたいことの一つです。
 今もこの家には俳句を楽しむ方たちをはじめ、大勢の方が集まって来てくださいます。決して〝上等な〟暮らしというわけではありませんが、ここには私にとってすごく〝幸せな〟暮らしがあると思っています。ありがたいことです。

由緒ある芦屋市平田町の邸宅街でも、戦前の建物は稀少である

由緒ある芦屋市平田町の邸宅街でも、戦前の建物は稀少である


海に流れる芦屋川を望む

海に流れる芦屋川を望む


敗戦後、進駐軍の占領をまぬがれ、教会として使用された。祭壇はその面影をのこす

敗戦後、進駐軍の占領をまぬがれ、教会として使用された。祭壇はその面影をのこす


邸宅文化を象徴するかのような階段

邸宅文化を象徴するかのような階段


現在では入手困難なマホガニー材を使う

現在では入手困難なマホガニー材を使う


自宅の庭園を歩いて句を詠むことも多い

自宅の庭園を歩いて句を詠むことも多い


詩情あふれる光景

詩情あふれる光景


左上の人物が正岡子規。子規を囲んだ句会の様子。虚子の姿もある

左上の人物が正岡子規。子規を囲んだ句会の様子。虚子の姿もある


稲畑邸に隣接して建てられた虚子記念文学館

稲畑邸に隣接して建てられた虚子記念文学館


明治30年(1897)に創刊された「ホトヽギス」の第一号

明治30年(1897)に創刊された「ホトヽギス」の第一号


虚子がもっとも気に入った句の一つ

虚子がもっとも気に入った句の一つ


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稲畑 汀子(いなはた ていこ)

俳人。1931年生まれ。高浜虚子の孫。小学校のころから祖父・虚子と父・年尾のもとで俳句を教わった。6歳の時に芦屋に移り住む。小林聖心女子学院高校卒業を経て、祖父と父に同行して全国を回る。1956年24歳で稲畑順三と結婚、現在も暮らす芦屋平田町に住む。1979年、「ホトトギス」主宰を継承し、35年間にわたり主宰を務める。1987年、日本伝統俳句協会を設立し会長に就任。2000年、虚子記念文学館を芦屋に開館、理事長に就任する。カトリック信徒。

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■虚子記念文学館

兵庫県芦屋市平田町8-22
TEL.0797-21-1036
【開館】10:00〜17:00(入館は16:30まで)【休館】月、祝・振休の翌日、年末年始
【料金】一般500円(18歳以下300円)http://www.kyoshi.or.jp


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目次 2014年11月号