第十回 兵庫ゆかりの伝説浮世絵

20141207401

中右 瑛

弁慶、書写山で大暴れ

姫路城から西へおよそ2キロのところに、標高360メートルの書写山がある。今は麓から山上へロープウェイが架けられ、僅か4分で山上に到着する。空中散歩、ゴンドラからの眺望は素晴らしく、東南に姫路市街が、手前には異国情緒豊かな名古山仏舎利塔などが、眼下には雪彦山を源とする夢前川が音もなく流れ、その下流には播磨工業地帯一円が、眼前には増位、広峰の山々が一望される。姫路城は残念ながら小山にさえぎられて見えないが、晩秋の紅葉を楽しみながら、ゴンドラは山上に着く。
書写山は深い原生林に覆われ、全山、紅葉の神秘的なたたずまいに魅せられる。杉木立の中から突如として巨大な姿を見せる円教寺の本堂・摩尼殿。この山中一帯は千年の歴史を秘める円教寺境内で、京の比叡山に対し、西の比叡山と呼ばれた天台宗の霊地。西国二十七番の札所になっており、昔は女人禁制、今は善男善女の参詣が絶えない。
円教寺は約千年の昔、康保三年(966)、性空上人によって開山された。世に高徳の聖と仰がれた上人は、元弘四年(1007)三月十日、九十八歳で入寂された。
時の帝・花山上皇は上人に帰依し、書写山に二度にもわたり行幸された。後白河法皇の一週間にもわたる参籠や後醍醐天皇は隠岐より帰還の途上、一泊されたことなど、歴代の天皇たちもこの地を訪れた。平清盛、源頼朝ら武家の信仰も厚く、諸堂を建立し、清盛は平家安泰を願い、源氏は平家追討を祈った。
また、羽柴秀吉は中国平定のとき、この書写山に布陣して、三木城攻め落しに成功、同寺に五百石を寄せたという。今でも、陣を構えた十地坊の跡がある。天皇も貴人も武家も、この書写山では一人の人間として帰依した。
あの荒法師・弁慶も、当地で修行に励んだ。しかし、弁慶は、ここで歴史的な悪名を天下に轟かす。それは、弁慶の大暴れによって円教寺が一夜にして灰燼と化してしまった――ことによる。
その昔、弁慶がまだ鬼若丸と名乗っていた頃、七歳から十年間、円教寺で修行していたという。鬼若は手に負えぬほどの乱暴者で、重なる悪行のため比叡山を追われ、各地を流浪の末、書写山に参籠した。仲間の一人に喧嘩好きの信濃坊戒円がおり、日ごろの鬼若に何かと反発する。しかし、鬼若の怪力には敵わぬ。信濃坊はいつも悔しい思いをしていたのである。
ある日のこと信濃坊は、昼寝していた鬼若の顔に墨を付けるいたずらをしでかした。その可笑しな鬼若の顔。仲間の僧たちは大声で笑った。その声で目を覚ました鬼若は、墨を付けられたことに腹を立て、信濃坊と喧嘩になった。強力の鬼若は信濃坊を講堂の大屋根に放り投げた。ところが、信濃坊の持っていた松明の火が講堂に燃え移り、大火災を引き起こした。とうとう一山三百坊の伽藍にも飛び火、書写山は火の海と化した。鬼若は思いもよらぬ事態にいたたまれず、都へと逃げ去った。信濃坊は召し捕らえられ、処刑されてしまったという。
図は、ワルガキ時代(比叡山修行時のころ)の鬼若が、大鯉と格闘するさまが描かれている。神魚と崇められた池の主・古鯉を友人たちからそそのかされるままに捕獲し、遂には殴り殺してしまうという、強力無双の鬼若を表現している。

歌川国芳画 「鬼若丸大鯉を刺し殺す図」

歌川国芳画 「鬼若丸大鯉を刺し殺す図」

中右瑛(なかう・えい)

抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。


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